ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

とりあえず謝っておきます

 私はかつて自分がサラリーマンをしていた時には終身雇用、年功序列給与をふざけるな、と思っていたのである。なぜなら自分が若い時には自らの将来の可能性は限りなく広がっていると思いこんでいたのだからであって、今から考えるとまるで阿呆だ。日本も早く転職のブローカーが活躍して次の職場に行けば確実にその処遇が良くなるという、アメリカの職場の美味しいところだけを取り上げたシステムを聞かされて、そう思いこんでいた。そうならなくちゃダメだろ、こんな具合に仕事しない奴も抱えていたんじゃ、と思いこんでいた。若いということは恥ずかしい。自分は残るだけの能力があると思っていた。能力主義なんて言葉は資本主義のまさに究極なんだと思っていた。
 しかし、今になって考えると終身雇用というシステムは実は何があっても滅私奉公する社員を抱え込むという点で最高の労務管理だった。その期間に労働者はどんどん経営者のいうことを黙って聞くような人達になっちゃったんだろうなぁ。その証拠にこんな悲惨な労働環境の時代になっても労働者はいわれるがままである。どこかの企業の工場で赤旗林立、「スト決行中123日目」なんて赤い幔幕が張られていたりしないのだ。
 いざなぎ景気を超えた景気の回復なんだといわれたって、それっていったいどこの話なんだよと、全然実感がないなぁと思ったら、そりゃ当たり前だ、私はもう既に景気不景気に左右される世界に生きていないのだった。それでも、これだけ負担が増えて行くのだといわれるとやっぱりそれは景気が回復していないからなんだと思ったりする。
 それなのに、(何度もいうが)景気が回復どころかいざなぎ景気を超えたといわれると、じゃ、なんで金利がこんなていたらくで、消費税の増税が議論され、年金の満足な給付が懸念されて、多くの労働者が非正規社員なんだ?この状態で景気は凄いところまできてんだよ、というのであれば、法人税が未だに優遇されるのは全く理屈に合わない。これって結局企業の決算が良くなるためだけの話でしょ?終身雇用をぶっ壊し、労働対価をかっ飛ばし、税金を払わなくてもいいんだもの、誰がやっても儲かるな。
 やっぱり、こんなシステムを作り上げたのが誰なのか、はっきりした方が良いんじゃないかと思うんだけれど、ま、あれだけ犠牲者を生み出した戦争の責任についてだって、なぁなぁで良いんだから、これなんてもっとなぁなぁで良いんだろうな。国内法では「犯罪人」としての規定がないんだから良いんであって、こんな具合にお金を提供してもらえる企業が儲かれば後はどうでも良い社会を作ってしまったって、国内法でなんの規定もないから良いわけだ。中央銀行の総裁がどんなに利殖に走っていたって国内法ではなんら規制されるわけでもないから良いわけなんだなぁ。<日本人であることを卑下するより、誇りに思>うことが重要だと仰るわけがよぉくわかる。
 すみまへん、バブルの時にむちゃくちゃだったのは、私たちの世代ですよ、本当に。この際、謝っておこう。「大変に遺憾に思うわけであります」

熊倉一雄

 昨日、大変に久しぶりにテレビでこの人を見た。えっ!まだお元気なんだ、どころではなくて、全く昔と変わらない声。もうなんと79歳である。全然声が変わっていない。不思議だ。ということは若い時から既にお爺さんの声だったといっても良いのか。テレビの「ヒッチコック劇場」でアルフレッド・ヒッチコックの声を担当していた頃、彼はわずかに25歳だというのである。信じられない。チロリン村とクルミの木が彼の声をちゃんと認識していた最初だろうか。それともケペル先生が最初だろうか。いやそんなことはない。その前に既に彼の声を私は気が付いていたと思う。なぜならそうした番組の時に、あぁ、この声はあの人だと分かっていた。変わらないって、凄いなあ。

あの爺いぃ

 って、眉をひそめて私を指さしている人がたくさんいるだろうことはおおよそ察しは付いており、申し訳なく思っているんだけれども、そういう横柄で、直ぐに文句をいったり、難癖をつけたりする爺は「人生に何か不満があるからなんですよ」と永六輔が表現していた。その通りなんでびっくりしている。こうしてぶつぶつ書いていることも、テレビを観ながら「なぁにをいってるんだ、こいつは!」と怒鳴っているのも、みんな自分が不満を抱えているからなんだろうなぁ。それを見て逃げだだしたくなる気持ちもわからんではないのだけれどもねぇ。

永六輔

 永六輔の番組で永六輔が転倒学会で話したことをいっていたのだけれど、永さんの後で話をした九州大学病院のリハビリの高杉先生が、西条八十の「カナリヤ」を唄ったんだそうだ。

歌を忘れたカナリヤは 後ろの山にすてましょうか いえいえそれはなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは 背戸の小藪に埋めましょうか いえいえそれもなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょうか いえいえそれは可哀想

歌を忘れたカナリヤは 象牙の船に金の櫂
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を想い出す

大変に怖い歌詞で、こんな「埋める」だの「ぶつ」だのって言葉を詩に使ったりしていることに随分違和感があるんだなぁ。私の元に西条八十がこの詩を「どうでしょうか」と持ってきたら、「こんな乱暴な詩はダメだなぁ〜」と一蹴したに相違ない。それでもこの唄は私たちの世代には知らない人がいないくらいに知られている。だから僕らも詩に相当に乱暴な言葉を使うことを考えても良いんじゃないか、と安心できる。いやいや、一番重要なのはこの最後のオチで、リハビリに限らず大事であり、随分考えさせる言葉である。