京橋の旦那から忘年会やるよ、とご連絡を頂いて地元の手羽焼きと大学芋、そしてオージーワインを持って参じる。ところが玄関には鍵。あれ?日にちを間違えたかな?と不安に。ピンポ〜ンしてみるとがらっとあいて、「あれ?半時間早いじゃん!」 なんてことはない時間を早めにとちっていた。
順繰りに皆さんお揃いになって見たら、皆さん鶏をお持ちで驚いたんだけれど、みんな味付けが違っていて、これはこれで面白い趣向になった。今夜の主菜は豆乳の鴨鍋。これが湯葉はとれる、こくのあるさっぱり味で、実に美味。発泡酒は5-6本あいて、ワインが二本あいて、もう実に何とも良い気分。
帰り際にぽつぽつと降りかかり、家に着いたらばったりと寝てしまうが、2時間程度で目が覚めてしまい、すっかり酔いも覚める。酔っていたと思っていたのに、この酔い覚めのすっきり感は一体何だろう?
圓生の「中村仲蔵」は先代正蔵とちがって深い。あっちも私は好きだけれど、圓生は唄えるのが強みだなぁ。
これも一種の回想法か
昨日若い友達たちと呑みながら話していて、こういうブログに少年時代の冬のある日のことを思い出して書いたりしていると、日頃記憶の中に呼び出さなかったことなんてのを想い出してくるんだよねぇ、と話していて、あ、これもまた一種の回想法かも知れないなぁ、それで頭を巡らす訓練になるのかも知れないと思い至る。
なにもわざわざそんなところにつなげなくても良い訳だけれど、例えばわが家でどんな犬を飼っていたんだろうかと想い出すと、最初は雑種で今考えればなんだかレトリバーの様な色をしたメリーという雌犬、真っ黒いけれど胸に三日月のような白い模様があってまるでツキノワグマのようだった秋田県の賢。その次が急に小さくなってコッカスパニエルのロリー。その後はしばらく犬を飼わなかった・・・なんて想い出す。すると彼等にどんなものを食べさせていたのか、それぞれが寿命が尽きた時がどうだったかなんてことを次々に想い出してくる。そういうことを何処かに書き留めておくと多分あとで役に立ったりするんじゃないだろうかと思うと、齢を重ねれば重ねるほど、こうしたことをやっていった方が良いんじゃないかと思うようになってきた。
これからしきりに随分古い話を書くかも知れないな。
言葉は変わる
先日古いタイプのiPodをお金を出してバッテリーを替えるという名目で新しいものと交換して以来、圓生百席を入れて何かというと聞いている。知らない話は一つとしてないのだけれど、久しぶりに聞いてみると、そういえばもうこんな言葉は使われちゃいないなぁとか、これは今の若い人には何のことだかわからないだろうなぁという話が結構出てくる。こうして見ると落語も変わらなくちゃいけないのだろうかという気にもなってこようかというものである。
それでも歌舞伎の中で長唄、常磐津、清元なんていうところがそのまま使われているように、それはそれでそのままにしておいて日本の耳障りの良い言葉がそのまま残るようにしていかなくてはいけないだろうと思う。
なぁに、心配しなくたって今の若い人たちが歳を取ってきたらそれなりに、良いねぇ、なんていって愉しんでいるのかも知れない。
それよりも心配なのは、廓噺だろうと思う。実をいうとこの私でも廓噺はもうあんまり楽しくない。はっきりいってしまうとこれは春をひさぐ商売の噺でそのバックグラウンドを考えるとそうそう笑っていられる噺なんかじゃない。
そりゃ確かに「付き馬」「三枚起請」「居残り佐平次」「文七元結」のように舞台はそうでもそのまわりの状況のおもしろさがおかしい噺が多い。だけれども、「お直し」の様ななんだかどうも生々しいものだってある。この辺がこの先どうなるんだろうかと心配な気もする。