ほぼ足りてまだ欲 その先

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「Brisbane Line」

 15-6年前に出版されたアジア太平洋戦争時代のことを書いた本をちょろちょろと読んでいる。1942年の2月に日本軍は豪州のダーウィンを空襲している。マッカーサーが"I shall return"という言葉を残してフィリッピンからオーストラリアに一次撤退した。もちろん米軍も当時豪州に駐留していた。オーストラリア兵士とアメリカ兵士との間にもめ事がしょっちゅう起きていたらしく、1942年11月にはブリスベンで大騒動になって死者まで出ていると豪日交流基金の頁にも出ている。
 この当時、「Brisbane Line」という言葉が語られていたようである。いったい何を意味するのかが分からなくて、ちょっとここで停滞した。こんな時はもちろんwebで調べるのが私の常で、だからパソコンの前から動けない。日本軍が上陸してきたらどうするか、という検討は当然豪州でもされていた様子がうかがえる。その中で、いざ日本軍が上陸してくるとしたら当然北部から来るであろうからブリスベンからアデレイドを結んだ線を防御戦としてそれ以南を死守しようとしたもので、それをブリスベン・ラインと呼んだという説がある。どうも、この話は本当なのかどうなのか、今でも諸説紛々のようで、あんなものはmythだ、といっている人もいるし、当時のメンジースだったら本気だったかも知れないという人もいるし、マッカーサー回顧録に書いてあるという記述も見たことがある。どうやら回顧録を捜すことになるだろうか。あれは抄本としては文庫になっているけれど、本物は古くて分厚いらしいものなぁ。2004年4月の豪州のThe New Citizensという雑誌にDrew Cottleという人が書いた「The Brisbane Line. A Reappraisal」という本の書評が載っている。アマゾンで捜せばいいのかも知れないけれど、そこまで掘る必要があるんだろうかと逡巡。
 ところで、シドニーに行ったことのある人であれば聞いたことがある、戦争中にシドニー湾に潜入した日本軍の三隻の特殊潜行艇の話がある。二隻はとらえられてキャンベラの戦争記念館で一隻にして展示されていた時期がある。今どうなっているのかは知らない。残りの一隻が外洋で見つかったと報じられたのは昨年であったが、その後詳報がつまびらかではない。その特殊潜行艇の事件は1942年の5月31日のことである。6月8日にはNew CastleとEast Sydneyに日本の潜水艦が砲撃したという報告もある。ブリスベンのレーダー基地は三隻の母艦が南下するのをとらえていたそうである。