ほぼ足りてまだ欲 その先

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文藝春秋9月号

 買い物ついでに100円均一ショップと本屋に行った。文藝春秋「9月号」の芥川賞安倍晋三を全く無視して、保阪正康の対談を読みたいだけである。まだ三人目のところだけれども、これは実に面白く、興味深い。89歳の作家、伊藤桂一氏は延べ7年一兵士として中国戦線に従軍。命令される側の一番上が中隊長だという話。「譬えていえば、中隊長はなろうと思えばカーツ大佐のように、自分の王国の王様にもなれる」といい、中国女性を連れて歩いていた中隊長すらいたという。戦後その中隊長が元気でいると聞き、「あわせろ」といったがその中隊長と農夫仲間の同年兵が「もう戦争は終わったんだから勘弁してくれ」と。つまり、「戦争というものは善良な農夫を残忍な中隊長に変えてしまうんだ」と仰る。だからそれは許せるのかといえば、私は許せないと思う。
 A級戦犯とは、戦争に勝った連合軍が勝手に決めた罪であり、勝ったものによる負けたものに対する見せしめだという人もいる。そうであるならば、私たちの国の中で私たち自身はあれだけの犠牲者を生み出してしまったことが一体全体どこに原因があり、一体全体誰がそれに対する責任をとらなくてはならないのかということを明確にしなくてはならないのではないのだろうか。
 例えば、先日小泉内閣総理大臣はドミニカに移民したものの、ただ単に辛酸をなめる結果となった人々に政府として「謝罪」をし、わずかばかりの慰謝料(とは云っていないが)を支払うことになった。このお金はどこから出ているのかと云えば国庫から出ているわけであり、多分昨日今日納められた税金から充当されることになるのだろう。で、時の内閣総理大臣たる小泉純一郎は責任をとったのだろうか。彼はただ謝罪という言葉を述べたにすぎず、私にいわせれば誰も責任をとってはいない。敢えていえば補償金を負担した国民が責任をとったといっても良いのかも知れない。あの移民に大きな問題があり、事前の移民先の調査はおざなりであり、移民プロジェクトに経験のある人間の意見すら排除してまで現地からの訴えを「官僚的答弁」で逃げ切った当時の高木廣一外務省移民局長、小坂善太郎外務大臣齋藤誠農林省振興局長、日本海外移住振興株式会社関係者、あるいは農林省から派遣された調査を担当した中田技官はどうなったのだろうか。耐震偽装事件もそうだけれども、その根幹を司る官僚、政治家の誰かが責任をとったのか。
 あたかも内閣総理大臣たる小泉純一郎のポケットマネーから謝罪の意味を込めた金銭が支払われるかの如き印象を持つが、飛んでもない話で、国民から供出してもらった税金からぽんと払うわけである。ならば、一体この不始末の原因がなんなのかははっきりするべきである。尾辻さんは、当時関係した部局であり、今でも海外に暮らす日本人日系人のために活動するJICAの現理事長たる緒方貞子氏が国会の委員会に出てこないといってぼろくそにいっていたが、本来的にぼろくそにいうべき相手は当時の外務省官僚及び農林省官僚であり、それぞれの管轄大臣であるはずだ。
 だから、あの戦争の責任を誰もとらないのが、日本の風習だからそれで良いのであって、もう過ぎた話であり、死者に鞭を打つべきでないから、奉られた英霊について、なんだかんだというべきでないのが日本の風習であり、文化だとでもいいたいような(と私には聞こえる)上坂冬子のセリフ(夕方のテレビ朝日)を聴いていると、日本人は本当に人が良いのだなぁとつくづく感心する。巧い具合に庶民、市井の人たちは教育されてきたということなのか。そういう感性を持つことのない戦後の日本人に与えられた教育について、その人たちから見るとそれが間違った教育だったのだ、と確信を持って思えてしまうのかも知れない。
 「自由」には「義務」が伴う。「義務」しかなかった時代よりは増えたものがある、というわけだ。