ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

母の三回忌

 母が病院に最後に入院したのは丁度二年前の4月1日だった。それまで何年も世話になった病院だった。担当の医師はその3年ほど前にやってきた若い女性の医師だった。彼女が最初に動けなくなった時にこの病院に入った時、既に多少認知症の状況を来してきていた。三ヶ月やっかいになったが、もうそれ以上症状が軽くなることは期待できそうもなかったけれど、急性期症状は脱していた。病院のMSWから相談があると言われていってみると、在宅は難しそうだから紹介する介護付き老人ホームに入ってみたらどうかといわれた。満足な実家で母と暮らしていた姉も自信がなさそうだったからその紹介に乗った。しかし、それから一週間後にいってみると介護付きといっているものの、実際には単なる高齢者合宿所のようなもので、実際の入居者の大半は介護の手を必要としない人たちだった。スタッフと話してみると彼らの認識も介護とは名ばかりだった。福祉系の入口で耳学問で得られる程度の認識を後生大事に開陳する。姉は覚悟を決め、それなら最期まで家で見ようという決意を表明した。すぐに要介護認定を申請した。幸いだったのは近所におられた内科の医師が一念発起をして往診を積極的にしようと医師になったという40代の働き盛りの方だった。「私も頑張りますから在宅で頑張りましょう」という。
 要介護度4だったから、入浴介助をお願いしたり、ヘルパーさんに入って貰ったり、デイ・サービスにもいくようになった。しかし、元気な頃から自分のペースを貫く母だったので、徐々にそうしたフォーマルの手を嫌がるようになった。ヘルパーさんが必要な時には私たちが交代で出かけた。姉は頑張った。時には介護スタッフとなり、時にはデイセンターの唄のおばさんであったりした。氷川きよしのビデオを撮り、昔の映画のDVDを流し、昔の話を聞いたりした。おかげで私も自宅ではほとんど料理をしたこともあまりなかったけれど、母の好きな魚を煮たり、大根を煮たり、おかゆを炊いたりするようになった。食事を取ったあとに、すぐに「何か食べるものを頂戴」といった時にどうしようと考えたりもした。今から考えると自分の横にずっといてほしかったのかも知れない。専属のなんでも聴く人でいてほしかったのかも知れない。今から考えるといろいろなことを思うのだけれども、当時はその場に1対1で対峙するとなかなかいろいろなことを発想できなかったなぁと思う。トイレ介助でも、実の息子に介助されることに彼女は多分に躊躇があっただろうと思う。
 最後に入院した時、もう相当に意識が混濁していたようであった。それでも深い息ではあったけれど、寝たので私は一度家に戻った。すると家に着いた途端に電話が鳴って危ないからすぐに戻ってこいと云うことだった。残念ながらそれっきりだった。最後はどんなことを考えていたのか、思い及ぶべくもない。
 墓地の廻りは桜が満開だった。向こうの山の自然公園のあたりは様々な桜がピンクだったり白っぽかったり、稜線を染めていた。やっぱり、♪わたしのぉ〜おはかのまえでぇ〜、なかなぁいでくださぁい〜、と唄ってしまった。母が死ぬ12年前に既に死んでいたオヤジとまたなんだかんだといっているのかもしれないというのに。