ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

中学・その三

 中学二年の時はそれでも今から考えると結構ゆっくり楽しんでいたんじゃないかと思う。ほぼ毎週だったと思うのだけれども土曜日は午前中で授業が終わるとそそくさと菓子パンなんか買いにいっちゃたりしてなんだかんだと時間を潰し、午後には校庭でフォークダンスに熱中していた。オクラホマミキサーだとか、コロブチカ、マイムマイムなんて曲を何回も何回もかけてはぐるぐる回って踊っていた。仄かにドキドキしたりなんかしながら。
 国語の授業だったのか、社会科の授業だったのか知らないが、新聞を作るということになった。多分グループになってそれぞれが手書きの新聞を作ったんじゃないかと思う。その頃バレーボールのクラス対抗が何週にもわたって放課後に試合があった。
 当時は勿論9人制で、学校で教えるバレーボールが6人制が主流になったのは東京オリンピックの女子バレーボールが優勝した頃じゃないのだろうか。ちょっとググって見ると今でも国体では9人制が行われているけれど、2010年を最後に国体でも廃止されるんじゃないかといわれているらしい。
 二回戦くらいだったかでわが2年N組(最後のクラスはP組である)はひっくり返されて負けた。なにしろ報知新聞を読んでいた私だから、「惜敗」と見出しに持ってきて先生に誉められた。なぁに、単なるパクリだ。それで気をよくした私はクラスの新聞をガリ版で出すことになった。そこからだ、私が書く字がガリ版の升目を埋めるために四角くなった。物事はちょっとしたことで転がり出す。おかげで今でも私の手書きの文字はひと頃よくいわれた「丸文字」風である。35歳くらいの時に職場の上司に良くからかわれた。「うちの娘が笑っていたぞ」と。すんまへん。
 私はそれから学校の新聞委員会のメンバーになった。学校が出す、ちゃんとした活版印刷の新聞の編集、発行に加わる。といっても編集委員会とか、会議とかそんなものがあったような記憶がないのだ。やったんだろうか。その作業に加わって最も覚えているのは印刷屋さんに原稿の類を届けに行ったりしたことだ。多分、編集は先生方がやっていて、その小間使い、まぁいってみればむかしの新聞社でいう「給仕」だったのではないだろうか。
 その印刷屋は都心、それも築地にあった。そういえば長ずるに及んで会社のCI担当をやった時にマニュアルの印刷をやって貰う清澄通り沿いの印刷屋さんに行って色チェックに立ち会ったけれど、まさにあの辺だった。印刷屋さんが多い界隈だ。当時は有楽町まで京浜東北線で行き、数寄屋橋から都電で築地方面に行った。往復乗車券を買って帰りもまた数寄屋橋に戻ってきた。多分ひとりで数寄屋橋・銀座あたりに出かけた人生最初の日のことだろうと思う。それまでは何度かこの界隈に行った記憶があるのだけれど、それはひとりではなかったはずだ。まさか3年後にこの辺をごろごろしていたりするとはとても思えなかった。
 【写真:中三の春。女22名、男33名、合計55名】中学三年の春になって、幼なじみ同年齢の「ようちゃん」、そして彼の二つ年下の弟「こうちゃん」なんかと英語の塾に行くことになっていた。中学の選択もそうだが、私は自分で決めたことは何もない。多分これまでの人生のポイントで、自分で物事を決めるようになったのは45歳を超えてからだろう。結婚を除いて。
 その塾に初めて行ってみるとそのシステムは目を見張るものだった。2時間を週に二回、一回は日曜、もう一回は平日の夜である。およそ百人ほどの生徒がひとりの先生のまわりに椅子をぐるんと並べ、膝の上に当時はやった扁平なバッグを置いて、その上で本を拡げる。
 今でいえばどちらかというとコミュニカティブな部分に重きがあって、それまで学校で徹底的にやったことのない発音記号を口に出して覚え、重要なことは口に出して何度でも先生の音頭に合わせて復唱して頭の中にたたき込む。2時間の中で出てくる文章をすべて暗記して次回の授業に臨む。しかも、出てくる文章の数が半端じゃないから油断ができない。閑さえあればその文章を見ては口をもごもごさせて暗記する。当時私は越境して通っていたくらいだから通学中の電車の中の時間をすべてこのために費やしていた。それでも、ちょっとさぼると暗記しきれず塾に行ってからももぞもぞ暗唱している。油断がならないのが、先生がとんでもない時に指で差して順番を外して復唱しろと指名することだった。立ち往生したことは何度もある。前の方には進学校に行っている優秀な生徒が座っていて、私達は少しでも先生の目につくまいと後ろの方で背中を丸め、先生から見えないようにして暗唱していたりすると、余計目立つのか、あてられてしまうのである。
 本当はこの塾は中学一年からクラスがある。私は中学三年の時に入ったのだから、みんなに比べると2年遅れている。どうするのかと思ったら、なんと中一、中二、中三のクラスに全部出るのである。どういうことになるのかというと、日曜日は朝から三クラスに出席する。平日は6日間の内で3回はその塾に行くのだ。だから、一週間に覚える文章としてはとんでもない数になる。これは辛いだろう。そりゃ辛いだろう。それにしてもあの先生は本当にタフだった。あの頃お幾つだったのか知らないが、全部にでているのだから。たった一人で中一から高三までのクラスをこなしていたのだ。