ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

親に

 職場をうまく勤められなかった、相談したけれど聞いてくれなかった、なんだかんだと日頃からうるさかった・・・。そうした理由を後付でいわれているのを聞いていると、本当にそうなんだろうか、とまず思う。まぁ、そうかも知れないなぁ、自分のこどもがのったりくったりしているのをみていらいらしない親はそんなに多くはいない。それはなんでかというと、このままじゃ、自分たちが死んでしまったら(当然親の方が歳が遙かに上なんだから先に死んでしまってもおかしくはない)、こいつはきっと苦労するに違いない。そのためにはどうにか暮らしていけるだけのスキルを手にして欲しいと親は心から思う。だから、いつまでものらりくらりとしているのを見ているとどうにかなって欲しいと願う。それは親として当たり前のことだ。
 しかし、そうなると結構親と目を合わせるのが辛くなる。眼が合えば、あ、またそう思っているんだろうなぁと察することになる。
 私は中学、高校の時に明確に「勉強しろ、なにをやっているんだ、なんで数学を受験科目として諦めてしまうんだ(当時それは国公立受験を諦めるということを意味した)、そんなことで暮らしていけると思うのか、いい男が(私の意見ではなくて当時の親の意見であることをこの際お断りしておく)英語なんてものを勉強して暮らしていけると思うのか(今から考えるとずいぶん短絡した思想だ)と、さんざんっぱらいわれまくった。ましてや現役の時に志望校全部に滑ったときには居場所がなかった。あの当時、やけになって酒もたばこも初めて手を出した。今の青少年に比べると全く奥手だといっても良いのだろうか。
 やっぱり、いやになってどこか誰も知り合いのいないところへふらっといってしまって、ゼロから暮らしを構築したいものだと思い続けた。それでうまくいかなくなったらなったで、死んでしまえば良いんだと、本当にまじめに思ったこともある。しかし、その時の思考では、結構足かせになったおやじが私の死を知って「あぁ、そうだったのか、そりゃ悪いことをした。奴がやりたいことを認めてやれば良かったなぁ」と後悔してくれればそれでいいやと思ったのだ。もちろんそんな思いは一年やそこらしたらとっくのとうに忘れてしまって訳のわからん学生生活を送っていた。その時は「あのおやじに恥をかかせよう」とは思わなかった。なぜか。それはあのおやじがまさに「私の親」だったからだ。その代わりに自分の気持ちを思い知って欲しかった。しかし、いずれにしろ親と忌憚のない意見を交わせる関係ではなかったことは同じだ。そこまでは全く同じなのに、「恥をかかせるために、誰でも良いから包丁で刺す」につながる過程がどうしても理解ができない。
 やけになる。そこまではわかる。しかし、なんの関係もない人を「刺す」のはどうしても発想がつながらない。理解ができない。その被害者は彼らの眼にはその辺の植え込みのチューリップと同じに見えているということだろうか。だったら自分という人間を誰も大事にしてくれなくてもしょうがないという自己矛盾の中に落ち込んでいるということか。
 理解できなくても、そうした人たちが後を絶たないということに何ら防衛策にはならないという徒労感もこちらにはある。
 一体どうしてら良いのだろうか。