中国、中華人民共和国がチベットやウィグル自治区をはじめ多くの異民族を抱えていることはよく知られていて、北京オリンピックの聖火リレーの時にも、あの国がそうした異民族を弾圧して、漢民族の支配の下に置こうとしていることが知られたことは記憶に新しい。
他の民族の存在を認めることがこれからの地球規模に広がった移動していく人たちの流れを真摯に受け止めるあり方の根底になくてはならない考えであることはいうまでもない。そのためには彼等が彼等の拠点で自立した文化を守ることを保証しなくてはならないと同時に彼等の存在そのものも認めて移動する人たちを受け入れ、また移動していく人たちを拘束してはならないはずだ。それが人権を認めるということのはず。
中国に対してチベット、ウィグル自治区での暴挙をやめよと要求するからには、自らもその思想に立って、自らのあり方も見直し、人の移動を正当に認めて、出る人をも入る人をも受け入れなくてはならないのはいうまでもない。そして、もし、自らが過去に人権を無視した抑圧を他民族に加えたことがあるのであれば、正面からその事実を認め、反省していなくてはならないはずだ。
嫌いな国がやっていることだからそれに反対するけれど、自らがやっていることは棚に上げ、反対者を見つけたらそれを叩きつぶし、過去の事実を報じるものがあればそれを取り囲んで脅かすような行動をとる者たちが広く市民の共感を得られるはずがないと私はたかをくくっている。けれど、大正後期から昭和10年代にはあっという間にそうした空気に押し流されていってしまった現実を顧みると、そんな簡単ではないかも知れないという恐れを抱く。勢いづいた暴力は正義を簡単に蹴散らすことがある。
こんなしがない場であってもいうべきことはいっておきたい。