ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

なぜなのか

 池田容之という32歳の男が二人の男性をホテルの一室で、生きたまま電動のこぎりで殺し、死体を切り刻んで海に捨てて殺害。その裁判員裁判横浜地裁で開かれ、死刑の判決が下った。しかし、判決の場面で朝山芳史裁判長は池田容之被告に「重大な結論で、裁判所としては控訴を申し立てることを勧めたい」と異例の説諭をしたというし、裁判員のひとりの男性は「被告の心情もわかってつらかった」と述べ、池田被告に対しては「控訴してくださいといいたい」と表明した。
 これはおかしくないのか?判決だぞ。一審が自分の力を「足りていない」と認めているということになるじゃないか。三審制度というものはそういうものではない筈だ。力一杯精力を傾けて判断し、そして覚悟を決めて判決するべきものではないのか。
 事件は非常に残虐なもので毎日新聞横浜支局・樋口薫は署名入り記事の中で被告人である池田が「「生きていいのか、死ぬべきか、葛藤(かっとう)は日々あります」と、涙ながらに揺れる心情を吐露した。その姿からは、事件と真摯(しんし)に向き合おうとする意思を感じた」と書いている(2010年11月16日 夕刊)。
 どうしてそんな気持ちになり得る人間なのにも関わらずここまで残虐な罪を犯し得るというのだろうか。彼は被害者の麻雀店経営者とトラブルになった人間から頼まれて、つまり自らの利益勘定からではなくて、頼まれてそのような残虐な殺害を犯した人間である。
 女性裁判員が「時間を巻き戻せるとしたら、いつに戻りたいか」と聞くと、「学生時代に本をしっかり読んでいたら違ったと思う(時事ドットコム2010/11/08-18:23)」と述べたとも伝えられている。
 なぜそんなことを犯す状況に立つことになってしまったのか、なぜ、違う人生を選択できなかったのか、なぜその犯罪を犯す前に向き合うことをしなかったのか、あるいはできなかったのか。疑問は次から次にわき出るばかりだ。
 「どうせ、俺なんて」と思って一日一日を、一時間を、一分を、一秒を暮らしている人間はあっちにもこっちにもゴロゴロしているに違いない。面白いことがなんで俺には起きないんだろうかと思って捨て鉢になっていく人間で満ちあふれているんだろう。こうして大きな犯罪を犯して、キチンと管理された生活になって見て、初めて自分を見つめるということができる。自分を見つめるのには、経済的な力、つまり安定した生活を送る力がなくてはできないということなのだ。
 多くの若者が「どうせ俺なんて、まともな仕事もないし」と自分の生活を諦めている。