先日連れあいとそれぞれの田舎(私の両親は岡山の出身、連れあいの両親は山梨の出身)の話をしていた時に、山梨では父方も母方も、どちらも蚕を飼っていたという。山梨の里は義母の方は山の中で田甫はほんのわずか。「ワシャ、ワシャ」とお蚕(かいこ)さんが桑の葉を食べる音が聞こえるほど飼っていたのだそうで、本人も指先に刃物をつけて桑の葉を刈ったこともあるという。その国産絹はどうも風前の灯火状態のようである。
2008/02/17付けの上毛新聞の記事によると農水省は2009年度から支援制度を大転換して、養蚕農家と製糸、織物業者らをグループ化する補助金制度を新設したのだそうだ。
養蚕農家それまで農家が生産した繭1kg当たりで受け取る約1500円のうち、繭を購入する製糸業者からは100円。残りの約1400円は、国の補助金や外国産生糸を輸入する際に徴収する「調整金」が充てられていたという。つまり、糸屋さんは原料を1kgあたりたった100円で入手できていたというわけだ。 養蚕農家の数は2007年は全国で1,164戸、群馬県内はわずかに471戸に減少していたがそれでも全国で一番多かったそうだ。製糸工場も国内ではたった二軒になっていたそうだ。ひとつは碓氷製糸農業協同組合で、もうひとつは山形県酒田市の松岡株式会社(こちらだ)。製糸工程の実に複雑なことはこちらに詳しい。
しかし、この補助金もこの時点で三年後に打ち切るということが既に決まっていた。その最後の年がこの2011年ということになる。
そもそも日本の絹産業は一時代に日本の屋台骨を支えた時代があって、その名残りが富岡製糸場にも見られるし、横浜にはかつて日本シルクセンターという施設もあったくらいである。
財団法人大日本蚕糸会という団体がある。民間団体として設立されたのが明治15年、財団法人として認可されたのが昭和15年という歴史のある団体である。 ここが蚕糸絹業提携支援センターというものを設立して「蚕糸・絹業提携システム形成支援事業」「蚕糸・絹業提携システム確立対策事業」というものをはじめて川上から川下にいたる産業を育て直そうとしているらしい。
しかし、問題は日本の養蚕業がなぜここまで落ち込んできたしまったのか、という点にある。中国を中心とした外国からやってくる絹糸が圧倒的に安いということはもちろんあるけれど、絹織物そのものの消費量が激減していることは間違いのない事実だろう。特に着物の需要の減少は眼を覆いたくなるほどだ。こちらの資料によると2009年度のきもの小売の市場はおよそ3210億円で、これは10年前の1999年度に比べて約60%もの減という。1993年度に比較するとわずかに1/4に過ぎない。だから余計に本物といわれる均一な品質の糸を用いた、手の込んだ染色や手織り技術を用いなければ再現のできない着物は目の玉の飛び出るような金額になる。そこまでくるとこれは日本の固有の文化であるから残さなくてはならないということはわかっても消費財として存在価値があるのか、という論議は出てくるだろう。これはひとえに着物だけの問題ではなくて伝統文化、技術についておしなべていえることである。
上に書いた酒田市の松岡株式会社にしても、もちろん誇りを持って製糸業を営んでいるようだけれど、他の分野を育ててきている。産業の転換は伝統文化の保存とは別に存在する、ということでもある。