ほぼ足りてまだ欲 その先

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偲ぶ会

 昨日はO崎先生を偲ぶ会が母校キャンパスであった。あの衝撃の日から3ヶ月半が経った。もうすっかり吹っ切れているはずだったのだけれど、逝去者記念礼拝の初代学部長のお話からまたあの衝撃が蘇ってしまって、瞬きするのも忘れて聴き入り、思いを馳せていたが、最後の聖歌で不覚をとる。あとから初代学部長の話で、先生がカソリックだと聞いた時に先生はいつもの調子で「隠れキリシタンです」と仰ったという下りで、思わず笑ったのは私だけだったと指摘された。そう、彼のミドル・ネームはステファノというのだった。
 偲ぶ会ではO崎先生の恩師の方から始まって様々な人たちが立って、思い出を語られた。驚いたのは先生の著作の多くを刊行した出版社の編集担当の方のお話だった。先生は原稿の締め切りを破ったことは一度もなかったのだそうで、それも殆ど完璧な原稿で渡され、タイトルもイメージぴったりなものをあらかじめつけられたのだという。先生は原稿を国学者だったお父さんに必ず読んで貰ったそうだ。そんなに几帳面な著作をしていたとは知らなかった。
 私は先生のゼミの教え子ではなかったし、授業も一つ二つを大きな教室で聴いたに過ぎないけれど、院に上がってから、先生のゼミの所属同級生達と一緒に吞んだりしていたので、とうとう先生の吞み仲間の端くれに入れて貰っていた。あのキャンパスに7年間通ったことになるけれど、そのあとでも、みんなが吞むというチャンスに声を掛けて貰って、わざわざそのためだけに出掛けていった。楽しい酒だった。入院したことを仲間から知らされて、どうなるんだろうと思っているうちに夏に私が風邪をこじらせてグズグズしていたのがどうにかなるかならないかの頃に、急逝の訃報を貰って、また動けなくなった。本当に偲ぶ夜だった。
 先生の書棚にあった書籍を参会者に持って帰っても欲しいという。ゼミの教え子達は恩師の形見の書籍を入手していた。中には自分も同じ本を持っているけれど、先生が付箋をつけているから、どんなところに線を引いているのか、それがみたいといっている人もいた。なるほど、それは面白いのだ。私も自分の恩師から蔵書を一冊戴いてきてあるが、その傍線はとても面白いものがある。
 私はこんなものを戴いた。