ほぼ足りてまだ欲 その先

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船の科学館

 1974年7月20日に開館してから37年間にわたり延べ1,800万人を超える来館者を迎えたといわれている船の科学館がとうとう休館するんだそうで、これは実質閉館ということか。本当にそんなにたくさん人が見に来ていたんだろうか。多分プールに来た人たちまでカウントしているんじゃないかという気がするなぁ。この辺はいい加減だけれど。
 私はかつて5年間ほど某造船所で仕事をしていたことがあるから、船の科学館には大いに縁がある。入社したのは1971年だったのだけれど、当時、船のブロックを部分的に制作するという工事が発番されて、一体これはなに?と聞いたら各社がそれぞれ分担している「船の科学館」に寄贈するものなんだというのである。多分他の会社も何かを寄贈したはずだ。なんでそんなことをしたのかといえば、なにしろ「船の科学館」を作ったのは元の笹川記念財団、今の日本財団で、今ではすっかり話題にもならないけれど、当時はまだまだ名前の知られていた、笹川良一(元A級戦犯)が理事長だったボートレースの元締め財団だ。いつからそんな利権を彼が手にしたのか、よく知らないが(多分今ではそれを解明した文献が出ているんだろうけれど)ボートレースで上がってきた金を抱えて造船各社を始めとして財界のホッペタを札束でひっぱたいて権力を持っていた。金が力の象徴の様なおっさんだった。自分の母親を負ぶっている銅像を三田のビルの前に立てていたのをテレビで宣伝していた。そういえば「戸締まり要人火の用心」と高見山が太鼓を叩いていたテレビキャンペーンを憶えている人たちもどんどん減っていっていることだろう。なにしろ彼は世界消防なんたら連盟のお偉いさんに収まっていて、アフリカの独裁者の様なぎんぎらな制服を着ていたりしたものであった。
 「船の科学館」には今2隻の船が係留されている。1隻は元青函連絡船だった羊蹄丸。これは引き取り手を捜しているんだそうだ。先代の「しらせ」だってなかなか引き取り手が見つからなかった(ウェザー・リポート社が買い取って今でも展示船として動いているらしい)のだから、あの船を引き取る人はいないだろう。なにしろ既にペラは抜いてあるので、自航不能
 もう一隻は初代南極観測船の「宗谷」だ。半世紀以上昔の話とはいえ、あの小さな船でよく南極の氷海に立ち向かったものだと驚くと同時に、当時はそれが精一杯だったんだろうなぁと時間の経過に驚くのだ。その「宗谷」もプロペラを抜いてただ単に浮いているだけなんだけれど、水に浮いているわけだからやはり傷みは続き、今でもそのメンテナンスについては大変な費用がかかっているはずで、今後いつまで保存できるかどうかははなはだ疑問である。
 私は個人的にはこの「宗谷」には大変に思い入れがあって、第三者的客観的な意見をもてる立場ではなくて、ただただ依怙贔屓なんである。幼心に担当技師だったとっつぁんからこの船の話ばかりを聴かされて育ったからだろうし、この船を見に行った記憶もある。
 どうやら「宗谷」はそのままあそこに保存がされるらしいが、どうなるかわからない。今のうちに写真に記録しておかなくてはならないなぁ。

 南極から帰ってきた「宗谷」が運んできた「南極の石」なんだけれど、今じゃ珍しくも何ともない。


 昭和34年(1959年)1月27日にオングル島の昭和基地で採取したと書いてある。もうかすれてしまって見えないけれど、松本満次船長の「松本」という判子が押してあった。