ほぼ足りてまだ欲 その先

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賠償

 しばらくそのままにしていたけれど、未だに納得ができない賠償に関する事項が出てきているので、自分のためにも記しておきたいと思う。

私に押しつけて逃げる国

 ひとつは厚生労働省村木厚子さんが国を相手に訴えていた国家賠償訴訟についてである。彼女は現場の検察官の無理矢理起訴によって被疑者とされて拘束され、社会的に大きな損害を被った。その損害を誤って起訴拘留した国家に対し賠償をしろという訴えを起こすことによって、その裁判過程で、いかなる要素によってこのような問題が起きたかを明らかにしようとした。
 然るにわが日本国家は「はい、はい、私が間違っていました、ごめんなさい」といってその訴えを一発で聞き入れ3700万円余りを支払うとした。

 法務省刑事局の岩尾信行総務課長は「村木厚子さんには、長期間にわたって多大なご負担、ご労苦をおかけし、大変、申し訳なく思っています。今後は粛々と支払いの手続きを進めます」とコメントを出しました。
 一方、村木さんが捜査情報をリークされて名誉を傷つけられたとして、300万円余りの賠償を求めた訴えについて、国側は引き続き争う姿勢を示しました。(NHK 10月17日 11時27分)

 この国家が払うといっている3700万円余の金は一体どこから出てくるのかといったら、もちろん国庫から出る訳で、その原資は国民から徴収した税金であることは間違いがない。「日本国」とはいえ、村木さんの冤罪事件を引き起こしたのは国民全員なのかといったらそうではなくて、法務省に所属する国家公務員たる検察官の何人かであるはずだ。なぜ彼等は処分を受ける、あるいは法曹資格を剥奪される、職を追われるという処罰もなしに、国民から徴収した金を村木さんの訴えに充当して終わりということになるのだろうか。
 誰もが疑問に思い、誰もがその機会があったら多分主張しているであろうこの疑問はなにゆえそのまま放置されているのだろうか。
 公務員が自らの職務の遂行に当たって間違いを犯した時に、行われる処分というものはどういう基準になっているのだろうか。多分公務員法とかなんとかにそんな規定があるのかも知れない。そんな処分規定があったら何も行政施策を実行できないことになっちゃうから処分はされないんだとか、なんだとか。
 マスコミの役割は、こうした事例に関してなにゆえこんなことが許され、なにゆえこんなことが起きないような仕組みが構築されないのかについて指摘し、国民に知らしめることにあるのではないだろうか。
 この疑問については東京新聞はこう説明している。

 厚生労働省の文書偽造事件で無罪が確定した元局長村木厚子さん(55)が、不当な捜査で精神的な苦痛を受けたとして、国などに計約4100万円の損害賠償を求めた訴訟の口頭弁論が17日、東京地裁であり、国はうち3776万円余の請求を受け入れた。
 国は理由について、大阪地検特捜部の前田恒彦元検事(44)=証拠隠滅罪で有罪確定=が「重要な証拠であるフロッピーディスクを改ざんする行為に及んだなど本件の特殊性に鑑みた」と書面で説明。村木さんが「(新聞各紙への)検察による捜査情報のリークで名誉を損なわれた」と主張して請求している約330万円分については争う姿勢を示した。
 村木さんの代理人弘中惇一郎弁護士は会見し「どんな場合に国家賠償責任が発生するか、公務員はどんな場合に個人責任を負うべきかという一切の議論を封じ込めた。納得いかない」と国側を批判。村木さんの「少しでも真相が明らかになることを期待していたのにこのようなことになり驚いていますし、残念です」との談話を発表した。
 国以外の被告は、前田元検事と大坪弘道大阪地検元特捜部長(58)=犯人隠避罪で公判中、取り調べを一時担当した国井弘樹検事(36)=現法務総合研究所教官=で、いずれも「国家賠償法上、個人は職務上の行為で賠償責任を負わない」と争う姿勢を示している。(東京新聞 2011年10月17日 夕刊)

 「国(つまり検察等捜査当局)が容疑捜査内容をマスコミに意図的にリークして社会的な損害を与えた」部分についてはなぜ依然として争うのだろうか。操作内容を意図的にリークするというやり方はおおっぴらに大手を振って今でも通用している訳で、陸山会事件についても同様であり、これを認めてしまうとこれから先に大いなる支障を来す、ということであるのだろうか。どんな犯罪事件であっても疑いの概要を私達がマスコミ報道によって知ることができるのは、この「意図的なるリーク」によっていることは間違いがないからである。警察の裏金事件についてもその追及が半ばにして全部潰されてきたいる事実もこの捜査当局による意図的なリークを失ってしまうマスコミ側の 利害によってであることに思いを致す必要がある。

やりたい放題

 もうひとつの賠償はもちろん東電による 福島第一原発事件によって起こされた損害に対する賠償である。原子力損害賠償法という法律があって、その上新たな法も制定されたことを考えると、あまりにもこの一民間企業があれもこれもの完璧なまでの保護システムの中におかれていすぎることに驚かざるをえない。
 そもそもインフラの提供という業務は民間企業が利益を追求して実施するべき筋合いのものではないはずだ。必ず必要だからこそ水にしても下水にしても、 公共機関による供給体制となっている。ガス、電気ははなはだ例外的にこの国では最初から民間企業による供給体制でやってきた。鉄道ですらかつてはその役割故に国家が運営してきた。
 それはなぜかといったら(繰り返すけれど)利潤を追求するという行為を目的に実施されるべき業種ではないからだ。
 今回の福島第一原発事件で初めて知った電気代の設定基準のあり方は利益を追求するためにはどんどん設備投資をすることが肝要だというシステムになっている。そして、万が一の時には全損害をその利潤追求法人自身が補填しなくても良いんだという、上げ膳・据え膳の誠に美味しい商売システムになっている。
 国民に対するフェアネスという視点にたつとこのやり方はまさに国民をペテンに賭けて金を搾り取り、それを限られた範囲の人間で山分けにしてきた歴史でしかない。
 これをマスコミは読者たる国民に対してつまびらかにするスタンスに立っていない。彼等が読者の側に立っているのかと云ったら、これは明確に違っていて、彼等はその「山分け側」にいるということを私達は認識しなくてはならない。
 それにしても、20日の自由報道協会主催の小沢一郎会見での讀賣新聞・社会部・恒次徹という記者の小沢一郎に対する質問のやり方を見ていると、「山分け側」の露骨なやり方が顕著になりつつあることが窺えてちょっと不安でもある。→ こちら