ほぼ足りてまだ欲 その先

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本気だとしたら

 小沢一郎の「国民の生活が第一党」が本気になって「国民の主権」「地域主権」「国家としての主権」を唱えていくのだとしたら(そうであって欲しいと願っているけれど)、これは自民党公明党民主党、その他自民党から派生した各党がこれまで依るべきところとして守り続けてきた既存権益を根底から覆し、本当に市民の手元に取り返すということになるのだ。
 しかし、それを誰も彼もが願っているのかといったらそんなことはなくて、今の原子力発電を巡る議論でもあからさまに見えてきているように、「停電したらこんなに大変なことが起きるんだぞ」キャンペーンをマスコミ各社が唱えて市民を脅かし続けるようなことが起点となって霞ヶ関から経団連、連合を含む大きな組織が大変に大きな圧力となるのが目に見えている。
 これから先、ひょっとしたら小沢一郎石井紘基がやられてしまったように消されないとも限らない。本気になって彼らを潰そうとしたら頭目を潰す、あるいは側近を潰すことは考え得る。この法治国家である日本でそんなことは考えられないと思うけれど、実際にはマスコミが小沢一郎に対してやっていることはかなりこれに近い。
 この国が経済的に発展していくためには米国のマーケットを失ってはならないのだという論理は想像ができるし、現実に米国市場なくしては「今の日本」は成り立たないだろう。しかし、「これから先の日本」がそうである可能性がどこまであるのか、という点ではこれは揺らいでくる。
 なぜなら、「これから先の日本」は「これまでの日本」とは大きく違ってくるからだ。労働人口が極端に減少し、産業は衰退の一途を辿り、人口のおおよそは老齢化していくのである。中国の影にあってどんどん目立たない「かつての栄光」の名残を売り物にした小国となっていく。そこでそれを「ただ衰退する」国で終わらせるのか、あるいは「芯のある尊敬に値する」国として残っていくのかというのは、国民性の成熟度に掛かっているといっても良い。それには「私利私欲」のぶつかり合いでこの国を草刈り場にしてはならないのだ。
 残念ながら今の霞ヶ関+経団連+既成政党+既製マスコミが作り出す「私利私欲の草刈り場」たる国家ではこの先衰退の一途を辿るしかない。
 私たち風前の灯火世代も、これから燃えさかる世代もこの国を「私利私欲の草刈り場」のままにしていくというのだろうか。