オセロの中島が仕事を放り出して全財産を捧げてしまった事件を持ち出すまでもなく、こんどの尼崎の事件を見ても、その小さな社会の中で何が一番重要なのかという価値観が偏って作り出される危険性というのはどこにでも転がっている。小学校や中学校でのいじめグループの存在だって既にそのひとつであるし、より暴力的になるとあの赤軍事件だってそのひとつだ。その渦中にいる人間にとってはその小さな狭いグループの中では思いもよらない価値観が大手を振って横行する。
マルチ商法にしたって、そんなことで広く万民が公平にその恩恵に浴するのかといったら決してあり得ないのに、そんな幻想に振り回される。
実は企業現場にもあそこにもこっちにもそんな小さなグループ内の価値観があり得るし、現にそれが当たり前になっている。一般社会的にいっておかしいということがもうおかしくなくなる。東京高検の東電OL殺人事件での行動・主張だって、村木さんえん罪事件の大阪地検特捜部の行動だって、みんな「何が正しいのか」という観点でおかしくなってしまっている。
駅みたいな、人でごった返しているようなところで、立ち止まって二人が交互にお辞儀をしているのだって、この二人にとってはこの二人の関係が何よりもすべてに優先しているのであって、そこでは既に「この人はこのままじゃぁねといってすれ違ってしまってはならない」という二人の関係でしか成立しない価値観がその周囲を急ぐ人たちを全員巻き込んでもかまわないという判断をさせる、ということである。
現役時代、そんなおかしい価値観に振り回されている職場にはいくつも出あった。架空出張で交際費を捻出するどこかの警察みたいな部長、昼飯時にワインを飲み干すアル中上司、「自分で判断しろ」といって責任をとらない鵜匠上司、失敗は部下・成功は自分の上司・・・・。その下に唯々諾々といた自分のような部下もものの見事にマインド・コントロールされていたんだといってもおかしくないね。尤も、そのコントロールに過半数が陥っていたらどうにもならないんだね。それに迎合するのが最もいやすい処世術ってことだろうなぁ。