ほぼ足りてまだ欲 その先

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質問

 50歳を過ぎてから大学に入ろうと思った時に、まずはハードルは高いほど良いと思って学費も高くて試験も難しいところに挑戦した。社会人経験者対象入学試験を採用する学校が増えてきている頃だ。
 あの制度を最初に採用したのは立教大の法学部で、その一期生がアナウンサーだった木元教子だった。木元は1956年に立大文・英文を卒業してTBSに入社したけれど、もう一度入学し直したらしい。当時はかなり話題になった。ところがこの時にはもう社会人入試を実施していなかったと記憶している。
 当時各大学で実施されていた社会人入試は秋にさっさと終わってしまうという傾向だった。私が気がついた年末にはその殆どは終わっていた。
 三鷹にある某私立大学はまだそうした特殊な入試のやり方を文部省に申請中だった。昨年問題になった大学新設申請ではないけれど、概ねそんなものは認可になることを前提にどんどん進めてしまうのが当たり前化している。その証拠に夏から秋にかけて各大学が行うオープン・キャンパスのポスターを見たら分かる。「新設!○○学科(申請中)」なんて書いてある。
 ところがその学校は「申請中なので、認可になったらお知らせします」という。そんな学校は聞いたことがない。受験希望者にいちいち電話でお知らせまでするという体制である。そして1月になってからだったか、ちゃんとお知らせが来た。入学試験は現役の受験生に課せられる三試験のうち午前中の一つが免除されて、長い長い国語の試験とこれまた長い上にヒヤリングまである英語の試験だった。現役が大学の教室での入試であるのに引き替え、社会人入試は隣接している附属高校の教室だった。
 試験会場だった普通の教室に入っていくと受験者は20数名だった。30代から私の様な50代が3-4人いたかも知れない。斜め後ろに女性でほぼ同年齢と思しき方がおられたのは会釈をしたから覚えていた。
 一次試験の発表がどういう形でなされたのか、殆ど記憶がないが、多分郵送だったのではなかったか。わざわざ発表を見に行って番号を探したという記憶がない。二次試験は面接だった。入学してみてその校舎が「金魚鉢」と呼ばれていることを知った。一階にガラス張りのラウンジがあったからだ。そこに集合だった。そこに来ていたのは10数名だった様な記憶だ。私はいの一番に番号を呼ばれて面接室に入った。すると、驚いたのは三名いらした面接官がそれぞれ胸に名札をつけていたのだった。考えてみればどこの学校や会社にいっても質問してくる人が一体誰なのか、自分はどんな人と話しているのか、全く分からない。今時だと、落とされた恨みで何をされるか分からないとして余計に明かさないだろう。あの学校が今どうしているかは知らない。
 投げかけられた質問はまずなんで今頃この学校に来たいんですか?というもので、これは相当にまっとうだった。まさか、社会人入試が残っているのがここだけで、とはいえない。すると、数学はどうだ?とか「リベラル・アーツ」というシステムを理解しているかだとか思いもよらない質問が出てきて、あぁ、これはヤバイかも知れないなぁと思い始めた。驚くべきことにこの時点まで私は落ちるということはほぼないだろうと高を括っていた。一次試験の会場からこの面接の会場まで来たら対象者の数は減っていたというのに。だから、一気に考え込んだ。帰り道が暗かった。しかし、受かった。
 心理学をやるつもりで入学したのだけれど、その専門科目を受講するのには先は長かった。「リベラル・アーツ」というシステムを理解していなかったことの証拠だ。入ってきた学生には一年目は徹底的にクリティカルに物事を捉えることの訓練と、英語でものを考え、あらわす訓練、そして様々な資料をどの様に生かすかという訓練を課す。非常に地道な訓練の毎日だ。その上、体育までこなす。成人前の若い諸君にとっては非常に役に立つ。しかも、この学校の学生の中には斜に構えて、「適当に済ます」というたぐいが非常に少ない。多くの学校ではそうした雰囲気が充満しているし、私が卒業した学校ではどう考えても登録してある学生が全員真面目に登校してきたら教室が足りないくらいだった。だから、とても充実していたし、一つのセメスターで登録できる専門に近い授業はたったひとつだったからムキになって前に座った。前の席が取り合いで、早く行かないと後ろ半分になってしまう。学生には授業の間、教師が話していることに対して疑問があったらすぐさま手を挙げて質問をするという雰囲気が満ちていた。その中でハッと気がつく場面がいくつもあった。
 しかし、一年を終えてみると、どうしても専門を学ぶのが遠すぎた。なにしろじっくりやって自分が進む道を考え、それからやおら専門に進もうというのが「リベラル・アーツ」の考えだから、それは当たり前で、私の様に何をやるのか、もうわかっている人間はさっさと専門性の高い学校に行けというものだ。それで私は転校した。
 しかし、残念だったのは転校先ではその専門性について、学生も教師の何人かも、一方的に語り、一方的に聞くだけだったことだ。それが日本の大学の一般的な姿かも知れないけれど、考えをぶつけ合う場ではない。開示されたものをふ〜んと眺めている様だ。眺めていてなにか気になるものに当たったらそこからあらがってみる。だから、当たらない学生はそのまま行ってしまう。
 なにしろ教室の前四分の一には学生が座っていなかった。私はもう老眼だったし、良く聞きたいから前から二列目にいつもいた。一言一句聞き漏らさないようにと思っていたし、分からないことがあったら質問したいと思っていた。それは違うと思ったらそこで意見を言いたかった。しかし、教師の中には「質問があったら最後にしてくれ」といいながらそんな時間を設けることをしなかったりする。つまり質問ということが日常的に考えられていないということである。これはショックだった。教師の側にも言い分はある。カリキュラムの中で13回(今は15回か)でこなさなくてはならないものがあるからしょうがない。
 授業の終わりに私が手を挙げて意見を言おうとすると、当時同じ教室にいた若い学生達は「あの人が手を挙げたからもう授業は終わりだな」と片付けて出て行ったのだと話す学生もいた。
 ある枠で私が若い学生の前に立って話をした時に紙に感想を書いて貰ったら「いい歳をして若者の中に入って物知り顔をするな」と書いていたのがあって大笑いした記憶がある。
 その期間に出逢うことができ、4年間(後ろの2年間は院生として)にわたって薫陶を受けた恩師にお会いすることができたのが転校した成果だった。結局私は専門性を高めることができたのではなくて、人間としての社会を見る視点が社会に出ておざなりになってしまったものを昔年の垢を落とす作業ができたという点で大成功だったと思っている。恩師は徒党を組むのが大っきらいで、それでいながらいつまでも「正義」が何か、を追いかけているタイプの人だった。こういうタイプは概ね組織でははみ出す。しかし、はみ出さずにいると正義が見えなくなってくる。
 質問をする為には人の話を聞きながら自分の中でそれを広げていかなくてはならない。これはとても大変な作業で、忙しい。咀嚼しながら考える必要がある。そしてその対立する考えも知らなくてはならない。この忙しさに身を置くことも訓練のひとつだろう。
 私が充分に訓練されるだけの資質を持っていたかは疑問だけれど、そんなことが垣間見えたのもこうした経験を積んだからであって、本来的にはこれは若い時に身につけるべきだった。それを全くないがしろにしたまま社会に出てしまった。大迷惑だったのは入れて貰って働かせて貰った企業であるし、もっと迷惑だったのはそこで私と一緒に働く羽目になった上司・同僚の皆さんだったわけだ。