大学では、良くリベラルアーツという言葉を聞くようになった。私はつい20年程前までこの言葉の意味を知らなかった。「リベラル・アーツをどう思いますか?」と聞かれた時は、事前にその言葉を勉強していたから答えられたけれど、そうでなかったら多分何のことやらわからなかっただろう。当時、「ジェンダー」という言葉の意味を問われて答えられなかったことも同時に思い出す。
私たちが若い頃には、そんな概念はなかった。しばらくして、ウーマンズ・リベレーションという言葉がアメリカから入ってきて、そうか、女性も同権だと主張しなくちゃならん時代になったんだな、と初めて認識したくらいだ。
ところで、リベラル・アーツだけれど、母校の学生募集の冒頭に「創立以来一貫してきた“リベラルアーツ教育”」という言葉を見て、ものすごく違和感を持った。あの学校が本当の意味での「リベラル・アーツ」を取り入れているとはとても思えないからだ。私たちがはじめて学校に入った頃は、一般教養というジャンルの授業があって、それが一年生と二年生に主に課せられていた。それはどちらかというと、戦前の大学の「予科」の概念で、今の高校で勉強するような科目のおさらいと、一歩踏み込んだ程度で、経済学部経営学科だった私はなんと数学、化学、人類学、音楽、経済原論、日本経済史、心理学概論、貿易英語、といった本当に高校の授業に毛の生えたような科目だった。その単位を取って、三年に上がった時から初めてそれぞれの先生の専門分野を学習するという方式だった。20数年前には、その一般教養科目が全学部共通カリキュラムという名前になっていて、文学部の学生も、経済学部の学生も入り交じった一般的な知識を修得する科目になっていた。専門分野には三年生以降に入っていく。
しかし、これでは大学一年生に入ったときから、既に方向はひとつに狭められていて、例えば、日本の近現代における福祉体制を研究してこようとする学生が、文学部史学科の江戸遊郭における花魁の置かれた立場から時代の背景を探ろうとすると、それは学部の壁があって、それを乗り越えることができない。
異文化における高齢者介護の問題点を探るべく、社会学部社会学科の異文化研究者の講義を受けたいと思っても、学部間の壁が存在して聴くことができない。これでは、とてもリベラル・アーツではなくて、概論として、隣のフィールドに立ち寄る程度のことであって、学際的な分野の研究者は育たないし、どうしてもこれまでのフィールドに限界を持つ。
「リベラル・アーツ」という概念は、主に米国で広まっている考え方だけれど、大学4年間に、非常に広く制限のない講義を自由にとらせ、その4年間で、おおよその方向性をつかんで、そこから真の研究として学部後の選択をする、という役割を果たす。英語では学部以降、つまり日本でいう大学院課程を「after graduate」と表現する。卒業後のコースですね。
大学で学ぶ学生も、ほとんど本当の意味を知らないから、自由に使われているきらいがあるけれど、本来的には厳格な意味を持って使ってもらいたい。
その観点からいうと、日本の大学のほとんどは研究色の強い専門学校というしかない。しかし、実際には、日本の大学は、大企業就職試験受験のための資格試験のようなものでしかない。戦後雨後の筍のように、各専門学校が大学となってしまったのだからそれも宜なるかなという気がしないでもない。
自分ではろくな研究はできなかったけれど、いろいろ考える訓練はされたような気がする。