ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

中学

 私は中学二年の一学期が始まる時に、静岡の私立中から東京大田区の区立中学に転校した。区立中学のほうが学習進度は先へ進んでいた。当時その区立中学はあとから考えると、偏差値をあげようとしていた校長がいたようで、学区外から越境してくる生徒を諸手を挙げて歓迎していた。そんなことは公言できるわけはないが、三学年で44クラスもあった中学の中に、東京都の学区外から来る生徒、川崎市から来る生徒、横浜市から来る生徒、そしてそれ以外の神奈川県から来る生徒がいた。なんでそんな事がわかるのかというと、年に一度だったか、全校の生徒を居住地でわけた地区別生徒会というのが開かれる。一体何のためにそんなのがあったのか、全く知らなかったけれど、学区内の生徒は町会別かなんかになっており、私たちのような越境生徒はそんなくくりに区分けされていた。

 私は横浜市から越境してくる生徒の一人で、朝の東横線に隣の駅から乗ってくる女子がいたのを覚えている。彼女とは高校も一緒になり、通常の時間の前に開かれる希望者だけの英語の補講でも一緒であった。彼女は英語を得意にしていたらしく、どこの大学へ進学したのか知らないが、社会人になった時に、羽田空港でグラウンド・ホステス(こんな言葉ももはや死語だ)として働いているところに遭遇したことがあった。お互いにびっくりしたが、お互いが仕事中だったから、それっきりだ。確か福島さんという名字だったように記憶している。

 そうして越境してくる生徒の中にはこの学校が都立の高校の偏差値の高い学校に合格する生徒数が多い、ということでやってくるものが多くて、その結果ますますそうした合格者を増やしていた。当時第一学区の中で偏差値の最も高い高校は日比谷高校で、そこへの合格者数が30名を超えているということだった。私は全くそんなことは露知らず、ただ横浜の中学には途中から編入すると高校受験の準備の一環として受けるアチーブメント・テストで不利だといわれていたらしい。それで東京の公立に知人を介して通ったらしい。おふくろと私の米穀通帳をその知人のうちに登録し、それでそのうちから通っているということにみなされていた。それを寄留といっていたが、これももう完全に使われなくなった言葉だ。なにしろ今や米穀通帳がない。

 この中学では通常の定期試験だけではなくて、毎月「実力テスト」といわれる業者テストを多用していてそれで各自のレベルを判定し、学年の上位一割は成績順に廊下に張り出されていた。毎月模擬入学試験をやっているようなもんだ。だからこの中学では、「君が都立高を受けるなら、この学校」と割り当てられた。私はなんとその割当てられた学校までしくじった。学区の入学試験は多分その志望校で受験したが、それっきりだったので、どこにあったかもう覚えていない。心理学的にいえば嫌なことは記憶の中に埋没させたということだろう。あとで都立を受験した生徒が問題を持って帰ってきて採点したところでは、「君はどうやら3点足りないなぁ」ということだった。当時の入試は九科目だった。軽んじていた音楽の試験で得点できていなかった。

 たしかここでも何度も書いているけれど、「学区内合格者」ということになった。それはどういうことかというと、全受験者を得点順に並べた時に、学区の全校の募集定員合計数の中に入っているということだ。それでどこの高校に行きたいのかを申告しろという。つまり、偏差値が下の高校は、合格者が定員に満たないから学区内合格者を受け入れる、というのだ。しかし、その志望をどこにするのかが難しい。どうもこのあたりになると、学校間、教師の情報網があるのか教師に「ここにしておけ」といわれて決まったような気がする。それで、雪の降る日にその高校へ出した志望の合格発表を見に行った記憶がある。寒いだけではなくて、なんだかうらぶれた気分だったことはよく覚えている。入学してみてわかったのは、男子学生のほぼ九割は他の、つまり偏差値の高い高校を受けて落ちてきた連中だった。つまり自分の身の程を知らずに上ばかり見ていた連中ってことだ。一年のときの担任だった数学の淡路島出身の片桐先生がいうには一学期中に男子の平均点が女子の平均点を凌駕するようでないと、その学年は伸びない、といった。わが学年がどうだったのか、全く記憶がない。
 英語ばかりに注力するな、他もやれと誰か、教師にいわれた記憶があるが、それは何を根拠になんでいわれたんだろうか。確かに数IIBで諦め三角関数微分積分は捨てた。生徒会の議長をやり、体育の教師から睨まれ、落語研究会を作り、バンドをやった。高校では跳ねっ返りだったわけだ。

 この高校から国立大へ進学できる生徒は防衛大を入れても毎年10人ぐらいだったのではなかったか。三年の10クラスのうち女子だけのいわゆる就職クラスは4組あった。その中からも短大や4大へ進学する生徒もいた。
 私は(もちろん)浪人をして、二年目は4校6学部を受験した。とんだ金食い虫である。3勝3敗だった。入学した大学の入学試験の時に、同じ教室に中学で一緒で、その大学の付属高校に進学したと聞いていた近藤くんがその付属高校の学生服でいた(当時は何でもそういうときは学校の制服で行く)。どうしたんだ、と聞いたら彼は大学進学で推薦してもらえなかったんだという。だからもう一度外部と一緒に受けるというのだ。しかし、彼とは入学後キャンパスで遭うことはなかった。あとから他の大学に行ったと聞いた。彼には聞いておきたいことがあったのに。というのは彼が中学3年の時に、一学年下に編入してきた女子と仲良くしていた(彼は「彼女だ」といった)が、それは私が小学校の時の同級生の堀江美智子くんで、彼女は、私が転校したあと、父親の赴任先だったシンガポールに転校し、それから5年後に帰ってきたのだった。だから一学年下げて編入してきたのだった。それを彼に確認したかったのに、あれを最後に彼には会えなかった。
 堀江くんは小4で私が横浜から清水へ転校するまで同じクラスだった。小3の時の教室では、彼女と並んで座っていた。ある日、何人もの児童が宿題を忘れてきた。ということはその課題になにか問題があったのではないかと今では思うけれど、宮本先生は大変に怒って、忘れてきた子は床に正座しろといった。女性の先生にしてはかなり強硬だ。堀江くんはちゃんと宿題をやってきたうちのひとりで、私の隣でちゃんと椅子に座っていた。で、宮本先生は優しい口調で「やってきた子には画用紙を上げましょう」といった。当時は画用紙一枚をもらうのが良い子だったわけだから、悲しい現実だ。多分1956年頃だ。私は可愛げのない子だったから、「画用紙なんて要らねぇや!」とボソッといった。すると可愛らしい堀江くんは「先生!」といって手を上げて、「画用紙なんて要らないといっている人がいます!」といったのだ。あのまつげの長い大きな目をして、告げ口をいったのだ。流石に一学期にクラス委員になる人気者は平気でこういうことをする。三学期にならないとクラス委員にならない程度に人気のない私はがっくりと来た。

 大学では、同じ中学出身で、付属高校からそのまま進学してきた中村くんと遭遇した。つまり彼は中学から高校へ進学する時に付属高校へいった。だから近藤くんと一緒だったはずだ。中村くんとは社会人になってから同じグループ企業に勤務していたことが判明した。1985年ころのことで、会社の私が働いていたフロアーのエレベーターホールの脇にあった待合スペースの椅子に座っていたのが彼だった。あまりの偶然に驚いたけれど、すぐに中村くんだとわかった。最後にあってから15年以上経っていた。しかし、それっきりだ。

 大学の学食で四年生になった中村くんと話しているところへ、二浪して私の一年下の学年に入ってきていた丸山くんと一緒になった。中学の時は同じクラスになった記憶はないのだけれど、丸山くんが新学期になってキャンパスに来た時にはすぐにわかった。その三人が学食で一緒になったのは多分その時が最初で最後だとは思う。そして驚くことに、その三人の目の前に、声をかけるほどには近くない距離をやっぱり中学の時に同級生だった長谷部くんが通ったのだった。三人はすぐに彼のことがわかり、全員が黙った。長谷部くんはあの偏差値が一番高い高校へいったはずなのだ。だから、通常だったらこのキャンパスに来るはずがない。つまり彼は三浪してあの頂点大学へ入るのを諦めたのだ。当時はそういう学生は結構いた。あの大学では学生のうちに司法試験に受かって、あるいは高文に受かってより高みを目指す。一方、様々な事情でそこへたどり着くことができなかった学生がいたり。あるいは大学を途中で放り出して一刻も早く社会に出てしまうという人達も多かった。
 中村、私、丸山の三人が認識したのは、その時、あのキャンパスに同じ中学の同学年出身者が四学年に渡って在籍していたということだ。