ほぼ足りてまだ欲 その先

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英語

f:id:nsw2072:20190324202652j:plain:w360:left 英語の習得には本当に70年間泣かされっぱなしだった。最初に中学に入って学校で英語を習いだした時、私は全くついていけなかった。文法が全くわからなかった。多分あれは数学的論理性が必要なんだと思う。一年間で、もう既に方向性を見失っていた。一年生を終えて、静岡の私立中学から東京の公立中学校に転校した。中学二年の最初の英語のテストは0点だった。みんな間違い、というよりも見当がついていなかった。危機感にさいなまれた母親が近所にいるかつて英語の先生だった女性のお宅へ通わせた。簡単なreaders digestが出しているような本を読むと云うだけだった。そもそも全く方向性が見えていないというのに、闇雲に活字を読んだって、意味ないわけ。

 一年後に今度は菊名にあった塾へ行くことになった。この塾の先生は元は広島の出身で、多分横浜で進駐軍の仕事をしたらしい。それが先なのか、関東学院の学校に関係していたのが先なのか、良く知らない。そこは中学に入ると同時にみんな通い出す。つまり、この時点で私は同学年の人たちに遅れること2年である。この塾へは各学年が日曜日、そして平日の夜にそれぞれ1-2時間の授業をする。だから、中学三年の一年間、私は平日に三回、日曜日は三クラス分出席をした。同じ境遇で通ってきているのが鎌倉から来ている歯医者の息子、東白楽から来ている男子、どこから来ているのか知らなかった暁星高校生がいた。

 中身は徹底的に構文を覚える。口に出して覚える。授業に出てきた文章を〈全部〉覚える。諳んじる。それも早口でペラぺらっと諳んじる。おかげで今でも覚えている文章がいくつもある。高校に進学してからもそうだけれど、通学に一時間前後かかって電車に乗っていたので、その間はずっと塾の宿題の文章を諳んじることに当てていた。知らない人が見たら相当気持ち悪かったことだろう。四六時中学生服を着た男子がブツブツいっているのである。授業の中で、いつも使っている文法の本と、先生手造りのガリ版の冊子に出てくる文章を覚え、諳んじるのはかなり辛かった。高校在学中に落語やビートルズに目覚めてしまったから、やめたくなった。もっと面白おかしく暮らしたくなった。それで辞めたいといいに行った。先生と正面から話したら、気がついたら「明日からまた頑張る!」になっていた。それくらいその大下繁樹という先生にはかなわなかった。

 高校時代にAmerican Field Serviceという高校生をアメリカにホームステイで一年間留学を援助するシステムがあった。うちの高校からも渋谷くんという同級生がそれで留学した。羨ましくて仕方がなかった。行きたかった。しかし賛同は得られなかった。「たった一年くらいアメリカに行ったくらいで何になる」という反対意見がわが家の大勢を占めた。そうか、そういう考え方もあるなとは思った。実際には一年間ホームステイしていたら、大きく違っていたはずで、簡単に矛を収めてしまった自分が悪い。渋谷くんは帰ってきてからやおらその気になって国際基督教大に進学した。
 私は英語で行くか、もしくはそこから独語をマスターするかして語学系の学校に行こうかと思ったが、わが家の壁は厚かった。ま、前にも書いたけれど、自分で決断すれば良かったのだけれど、当時としては日本の大学をまともに卒業して、手堅い人生を送った方が儲けは大きいかも知れないというのが時代の常識だった。海外、多くの場合はアメリカの大学を卒業して帰ってきても日本の企業はこれをまともに相手にしないぞ、だった。考えてみれば、その当時の日本の常識というか、俗な考え方は、大学で何を勉強するか、よりも、どの大学を出るか、でしかない。そのままその俗にまみれてしまって、安易な方、安易な方に流れて行ってしまった。そのまま帰ってこないって手だって充分にあったのにね。

 入れて貰った職場にちょっと英語がわかるくらいの人はいても、手紙を書いたり、口頭でやりとりする人はそんなにいなかったものだから、仕事を始めるやいなやスコットランド人を横須賀に連れて行くという出張があり、そこから今度はそのふたりを横浜の舶用エンジン工場へ連れて行った。驚くことにそこでこのふたりと日本人技術者とのあいだの通訳をやる羽目になった。それでなくてもわからないスコッティッシュ訛りを何度も聞き返しながら、冷や汗をかいた。

 おおよそ30年凸凹の間、そんな仕事をこなした。いい加減なもんだったけれど、その間行かせてもらった2.5ヶ月のアメリカ研修でラジオも聴けるようになった。その代わりその2.5ヶ月間仕事から離れていたことに対する報復人事異動は辛かった。どうもあの職場は研修するってことはサボっていると思う習慣にあったらしい。「今度は会社にお返しをしてくれ」といっていたから。最後に自分で選択した3.5年の駐在は、よくまぁ双極性障害に陥らなかったなぁと思うような環境だったけれど、それなりに過ごすことが出来た。おかげで様々な英語を聞き分けられるようにはなった。習うより慣れろとはこのことだ。しかし、それもどんどん錆び付いていく。

 4年前にNew Zealandへいって、現地のバスツアーに一週間ほど乗った。ドライバーが運転しながらガイドをしてくれる。参加者はOZ、アメリカンがほとんどで日本人は私たちだけ。あんなに英語がわからなかったのはこれまでの人生で初めてだった。彼が喋っていると、英語とはとても思えない。それでも英語をネイティブとする連中はちゃんとわかっている。私は毎回バスに乗る時に、次の集合は何時にどこなの?と改めて聞いていた。あんな英語はあれ以降、出逢ったことがない。

 あれから英語には全く自信を失った。