ほぼ足りてまだ欲 その先

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日本史

 考えてみると、私が勉強した日本史というのは高校で点数を取るための勉強でしかなかった。結果として大学受験で選択した世界史も同じだった。これは歴史の勉強というか、知識を得るためのものではなかった。その証拠にそれが終わったら全部忘れていた。
 最も必要な歴史の勉強というのはまず、家族の歴史だったんだなぁと今更ながら思う。というのはわが家族の歴史を私は何も知らないからだ。
 死んだおふくろがまだ認知症を病む前に、炬燵で話ながら、田舎のあのおじさんはうちとどういう関係なんだと聞き始めたところから、延々と親父の親戚筋、おふくろの親戚筋について話を聞いたことがある。その時に炬燵の天板の上に載っていた何かの紙の裏にそれを図解したのだけれど、その紙はとっくにどこかに行ってしまってもうわからない。
 少なくともおふくろの関係に庫太郎という名前の人がいたということは覚えている。そんなものだから、うちの子どもにもその辺を説明することはもうできない。ここで途切れてしまった。わが家の歴史ももう完全に誰も知らなくなってしまったということなんだよなぁ。
 親父には三人の従兄弟がいたというのは知っている。親戚つきあいがあったのはこのうちの二人だけれど、そのうちの一人は生涯独身だと聞いていた。彼は京都大学の土木をでて、某建設会社に就職していたけれど、私たちが小学校を卒業した頃にはもううちに遊びに来なくなった。酒は好きだったようだけれど、うちではあんまり呑んでいるところを見たことはなかった。四角い顔をして目が細いところが親父に似ていた。会社でどこまで行ったのか知らないけれど、年賀状だけのつきあいになっていた。70年代の終わり頃の夏、ふと思い立って年賀状にある住所に、果物を持って訪ねていった。そこはマンションだった。ブザーを押すとややしばらく間があって、ガチャンと扉が開くと、ランニングにすててこ姿のおじさんが、驚いていた。
 心臓を病んでもうここにごろごろしていると言った。歳の頃なら70代に入ったところだったのかもしれない。飯はどうしているのかと聞くと、「下から持ってきてくれるからな」と言った。おふくろの話に、おじさんがこの近くの坂を下ったところにある居酒屋の女将さんに面倒を見て貰っているらしいと聞いていたので、そのまま、それは誰かとは聞かなかった。
 おじさんが「しばらく行っていないからおまえの親父に会いに行きたいなぁ」といっていたと親父に伝えると、じゃ、連れてきてやれというので、車で迎えに行き、実家にお連れした。帰りに家まで送ろうとすると、その手前で降りるといって別れた。
 あのあとあのおじさんがどうしたのか、皆目知らないが、いつの間にか年賀状が来なくなった。
 何年も経ってから、2000年頃に、その居酒屋に行ったことがある。私と同じくらいの年頃の旦那に身を明かすと、驚かれた。それっきりその店にも行っていない。