ほぼ足りてまだ欲 その先

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おふくろの実家

 うちのおふくろは岡山の農家の二人姉妹で、長女だったうちのおふくろは女子師範まで出て、小学校の先生をちょろっとやって遠い親戚だった貧乏農家の三男坊だったうちの親父と結婚して横浜に出てきちゃった。
 あとに残った妹が跡をとるしかなかったわけだけれど、婿養子を迎えて、男の子をひとりこさえた。この養子だった私のおじさんは人の良いおじさんだったのだけれど、非常に寡黙な人で、私にはほとんど口を利く事もなかった。ところが、このおじさんは農家に婿に来たのに、ほとんど畑仕事をしているのを見た事がない。爺ちゃんと婆ちゃんが元気な頃はまだ牛もいて、それだけ田圃、畑もやっていただろうに、そのおじさんは何をしていたのか、まったく知らない。
 そのおじさんが、まだ私が小学校の低学年の時に、ひい婆さんの葬式で行ったときに、従兄弟と私を連れて金光様へ行った事がある。あれはなんで行ったのかはっきりとは知らない。「どこかへ連れて行け」と誰かがいったのかも知れない。蒸気機関車に乗って金光へ行った。残っている写真を見ると、広い畳敷きの中に入った記憶が蘇ってくる。あれが金光さんだったのだろうか。あのおじさんが金光教だったのだろうか。そういえば金光学園というのはエリート校だと聴いた事があるなぁ。
 石炭の煙を嗅ぐと、蒸気機関車を想い出し、この時のことを想い出す。岡山駅から金光の駅までは今でも電車で30分はかかるというのだから、当時はもっと掛かったという事だろう。帰りの岡山の駅からバスターミナルの天満屋まで歩く間に眠くて眠くて仕方がなかった事を想い出す。
 私が社会人になったときに、おじさんが代理店をやっているから、この生命保険に入れとおふくろから指示が来て、指定された医者へ行って健康診断書を書いて貰って送った。それ以来ずっとその生命保険を維持してきたが、もう数年前に全部解約した。
 ということはあのうちは一体何で暮らしていたんだろうか。裏の畑で夏場はキュウリやトマトを栽培していたが、あれは自家消費のために過ぎなかったはずだ。多分田圃を人に貸して、そのあがりで喰っていたんだろう。つまり地主だったのじゃないか。
 たったひとりの息子も東京の私立大学を出てから帰って、市役所に奉職して子どもを二人つくったが、1995年の正月に51歳で心筋梗塞を発症して急死した。あれからあのうちの墓参りに行っていない。そろそろ行っておかないと、それこそこのままこの世からおさらばしかねない。