ほぼ足りてまだ欲 その先

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宮本政於

 1999年7月18日にパリで病死。ウィキペディアで見ると1948年生まれと書いてあって月日が記されていない。しかし、彼は早生まれだったはずだからすでに51歳となっていたはずだ。
 私は彼と中学2年の時に同じクラスだったということを1992年くらいまで知らなかった。同じくクラスメイトだった医者とふとしたことで再会し、その男の口から、宮本の話を聞いた。彼らは同じ大学の医学部だったそうだ。共通の想い出にある同級生の名前を挙げていて彼が宮本の名前を口にした時に直ぐさま、つぶさに彼の顔が思い浮かんだ。小柄だけれど、如何にも東京の頭の良さそうな都会ッ子という印象だった。
 その公立の中学校はその学区の中にお金持ち地域があったり、下町地域があったり、挙げ句の果てに私のようにまったく学区の外からルール違反を犯して越境して通ってくる連中がかなりの数に上っていて、通り一遍ではなかった。
 それ位だから生徒の数は並大抵ではなくて、各組に55名くらいもいる上にクラスの数は学年で16組にも及んだから、学年に900名近くいたはずで、同じクラスになっただけでも運といえそうだ。宮本は中でも山の手の小学校出身グループだった。
 ところが卒業時点のアルバムに、彼の顔がない。宮本は中学3年になるときに転校していたらしい。中学3年生の一年間をどこで過ごしたのか、私は知らないが、彼が卒業した高校は麻布学園である。高校時代を麻布で過ごした友人を持っていないから、それ以降の宮本のことを私はまったく知らなかったし、その医者の口から彼の名前が出るまで宮本のことを想い出すことなぞただの一度もなかった。それなのに、宮本の名前が出たときに、直ぐさま彼の当時の顔を想い出したのは甚だ不思議だった。
 宮本はNew York Medical College勤務を最後に1986年に帰国して厚生省の技官となった。そこから日本の役所の勤務形態の理不尽さに驚いて、いろいろな軋轢を生む。役所に限らず民間だって日本の組織の中で働くと、驚くような日本固有の慣習でがんじがらめになっているのは中にいるとわからないけれど、長年外にいたら嘘のような状況だったはずだ。
 なぜ「残業」なる行為が発生するのか不思議だったそうだ。米国等で仕事をしていると出世しようという意欲があったり、自分が携わる仕事にのめり込んでいるときには寝食を忘れて仕事をする人は珍しいものではないけれど、誰も彼もがおしなべて「残業」することが当たり前だという文化はあまりにも例外的だ。慢性的に全員が「残業」をするのが当たり前だということは経営者が適正な労働力を雇用せずに、現有労働力に無理強いをしているということになる。何しろ日本人社会は「頑張る」ということが「美」だったのだからその違いは当然の如くだ。
 彼はその辺のことを当時の朝日新聞が出していた「月刊Asahi」に連載していたのだそうで(私はこの雑誌のことも認識していなかった)、ここでことし68歳で死んだ朝日新聞若宮啓文と親しくなったらしい。同年齢だったということもあったかもしれないらしいが、そんなことをいったら団塊の世代だからいくらも同年齢はいたからきりがない。その時に同じように月刊Asahiに書いていたのが保阪正康だという。
 保阪が云うところに依ると、一度彼とふたりでレストランで会食をしたことがあったが、その時に宮本がこだわっているワインを注文したのだそうだ。するとそのワインのことをフロアのサービスマンが知らず、奥から人が出てきてもわからず、このワインを知らないとはとあきれ果て、日本に入れているのはあそことあそこだから、とまで指示をしたという。その時に保阪がなにもこんなところでまでそんなにワインにこだわらなくたって良いじゃないかというと宮本は「なんでここではいけないの?」といったという。自分が欲しいものははっきりと欲しいと主張する。これは日本の文化、というか、慣習というか、あちらもこちらも立てるという習慣の中では出てこない。
 彼が出した本の中に「在日日本人」というタイトルがあるが、その気持ちが充分に表れている。
 中学二年の時の彼の名前はこういう字ではなかったような気がする。