ほぼ足りてまだ欲 その先

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映画館

 私の映画史は横浜私鉄沿線の東映封切館から始まったのだろう。なにしろうちの親父の仕事は客次第で、週末も仕事だったことはのべつ幕なしで、ひどい時は家族揃って出かけようとしているところへ電話がかかってきて「今すぐ来て」だったりした。だから、行けるときは必ずと云うくらい子どもを連れてその東映封切館へ行った。多分当時のことだから電話から逃げられていたんじゃないだろうか。
 当時の映画は毎週新しい映画が掛かるというわけで、毎週行っても違う映画が二本見られた。今から考えてみたら随分粗末な封切館で、椅子は多分ひとつずつじゃなかったんじゃないだろうか。ベンチだったのか、独立した椅子といっても背中は合板だったと思う。必ず「禁煙」と書いてあったけれど、たばこの煙もうもうで、誰も気にしていなかった。
 映画と映画の合間には、フィルムを巻き戻している「スレスレチャラチャラ」とでも云うような音がしていた。客席にはおじさんが「えぇ〜、おせんにキャラメル」といってせんべいを売りに来たし、「あんパンにラムネ」とか「アイスクリ〜ム」と次々に売りに来た。この習慣はかなり後まで続き、社会人になった頃だって、日比谷の東宝封切館でもアイスクリームを売りに来たものだ。
 そして必ずニュース映画があった。一番不思議だったのはアメリカンフットボールが映ることだ。スローモーションで選手が動く。何のことだかわからないけれど、華やかなアメリカの文化なんだろうと思っていた。あれは一体誰の為にニュース映画の中に入っていたんだろうか。だって、駐留軍兵士とか、駐留軍の家族なんか、絶対に東映映画を見になんて来ないし、あの時代に日本人でフットボールがわかった奴なんて多分ほとんどいないだろうに。
 台風の被害は必ずニュース映画で見た。テレビではまだ見られなかったんだから、動画で見る台風被害はすさまじいものがあった上に、バックには必ずおどろおどろしい音楽がかかっていた。あとから、あのての曲がみんなクラッシックにあるんだと知って不思議だった。
 松竹の封切館はひとつ電車に乗った駅にあった。あとは二つ目の駅に洋画館があった。東宝を見るようになったのはどこの映画館だったんだろう。電車で三つ反対方向へ行った町だったんだろうか。社長漫遊記シリーズは一体どこで見ていたのか思い出せない。日活もそっちだったのか。風速40米なんて裕次郎の映画を見た記憶があるけれど、あの唄には驚いた。「なんだ、ありゃ?風速40米?!」なんてセリフがあったような気がする。なんだ、こいつ?って思った。そして必ずギャング団のアジトはキャバレーの奥の事務所なんだね。
 岡山のおばあちゃんが出てきたときに一緒に「君の名は」を見に行った記憶がある。あれも伊勢佐木町だったと思う。佐田啓二岸惠子だけれど、岸惠子が当時横浜に住んでいた。横浜に住んでいたといったら、あとからテレビで知った草笛光子も横浜だ。