ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

両爺(とかく爺は話が長い)

 昨日の夜から、今朝になってもまだ、森喜朗が辞めて川淵三郎へ、83歳から84歳へのバトンタッチでテレビはあっちもこっちも大騒ぎになっている。BBCやABCまでこんな具合に報じているとそれまで見せてくれている。川淵三郎は森との会談が終わって家に帰ってきたところで、報道陣に捕まり、それでも終わらなくて、着替えて表に出てきてまでぶら下がり会見をやった。
 彼等二人は早稲田大の出身だし、もちろん旧知の間柄だったんだろうけれど、川淵三郎の名前がJリーグの発足で広く国内に知れ渡る前まではどうだったのかわからない。
 川淵三郎は、ここで私が触れる必要もないくらい知られているけれど、Jリーグの発足までは古河電工の子会社にいて、それほど目立つ存在ではなかったのではないだろうか。1990年にイタリアで開かれたサッカーのワールドカップでは彼はNHKの解説者としてテレビ中継の現場にいっていた。その前年からJSLの活性化委員会が作られて、プロリーグへの構想が始まって実際に博報堂の力をかなり使って1991年11月に日本プロサッカーリーグが設立され、その時に彼はチェアマンに就任した。Jリーグが正式に始まったのは1992年の5月だった。良く我を張る読売ヴェルディから、企業名を入れない、地域のチームにするという初期の鉄則を守ったと私は驚いた。あれから読売はサッカーに対して意地でも力を注がなくなった。当時の読売といったら、それまでのJSLを盛り上げてきたのは自分たちだと自負していただろう。それを頑としてはねつけたという実績は大きい。
 彼はイタリアのワールド・カップ中継でイタリア滞在中に働いてくれたイタリア人の若い女性通訳をその後日本に滞在中にもてなすというざっくばらんな普通のその辺のオジサンだった。当時、50歳そこそこで屈託のないサラリーマンとしか見えなかった。
 森喜朗も、ある意味では非常にざっくばらんな飾らない、つまり、肩書きで風を切って歩くタイプではないといえる。
 しかし、問題なのは、その「ざっくばらん」さなのだ。彼等二人に共通するのは、壁を作らずにその場で普通に話してしまう、という点にある。森喜朗の「女性が入っていると会議が長引く」という発言は、彼にとってはざっくばらんな発言なんである。
 あれは2月3日の報道陣にも公開された日本オリンピック委員会の臨時評議員会のオンライン会議での発言であり、「だれが言ったとは言わないが、なかなか終わらないで困るといっておられた」といっている。もっとも最後には「組織委員会におられる女性の方々は国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですから、お話もシュッとして、的を射た、そういう我々は非常に役立っておりますが。次は女性を選ぼうと、そういうわけであります。」と結んでいる。彼自身もこういうことを公的な場所でいうのは問題があると、認識しているのである。しかし、評議員会の終わりに際しての名誉評議員のご挨拶ということで、JOCの山下に呼応してちょっと加えたくらいの感覚でしか無い。これがまずい場面だということをわかっていながらいってしまう。

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 川淵三郎は昨夜の自宅前のぶら下がりでべらべらと良く喋ってしまった。森が泣いたという話を聞いて自分ももらい泣きしたとか、そんなこといわなくても良いと思うけれど、彼はここでサービス精神を発揮してしまうというか、喋りすぎる。
 彼等の屈託のなさ、ざっくばらんなことなんかが、高齢と共にどんどん公私の別をつけることができなくなる、というか、なんで区別をつけなくてはならないかという点に鈍感になり、舌禍を引き起こす。なにしろ、自分はここまで80数年間生きてきて、功成り名を遂げて、知らない人も自分を見れば「あ!あの人だ!」という表情を浮かべて道を譲ってくれることに、慣れっこになってきちゃう。実はもうこういう立場に立つには手垢にまみれすぎてしまったということではないのか。
 川淵三郎の功績を述べられる時に必ず、バスケットボールに話が及ぶ。あの業界は今のBリーグが発足するまでは、もうぐちゃぐちゃだった。2006年に埼玉でワールドカップが開かれた。当時日本ではほとんど話題にならなかった。バスケットボールのファンが知っていた程度だった。それくらいだから、大赤字で終わった。バスケットボールの国内組織は非常に複雑なことになっている。協会の会長になる人物に困ったくらいで、アルビレックス新潟がプロ化に踏み切れない協会に愛想を尽かして、bjリーグが始まったのはワールドカップの前年。分裂してしまったので、2008年には国際バスケットボール連盟FIBA)から資格を停止されてしまい、国際試合が出来なくなるというていたらく。大企業の企業チームと地方から生まれてきた地域チームとの確執となってしまったのを結局統合してBリーグになった時のトップを川淵三郎に託した格好になった。ぐちゃぐちゃした2008年から2014年までの間会長に就任していたのはだれあろう麻生太郎なのだ。なんもせんかった。従来はそれでも良かった、名前だけで。しかし、彼の就任期間はもう手のつけられない状態だった。彼はなにもしなかった。「俺は名前を貸しただけだ」とでもいうだろう。
 爺さんになると、場の区別がつけられなくなる。例えば森喜朗は多分、少人数の会食の場面なんかだときっと廻りに笑いを提供するざっくばらんな爺様だと思われるんじゃないか。だけれど、それをそのまま公的な、開かれた場所でやる。良く選挙区に帰って不特定多数の人たちの前で、とんでもない顰蹙発言をする自民党の古株はみんな揃いも揃ってそんないわゆる「不見識」な連中なのだ。
 昔はどうか知らないが、近頃月刊Hanadaや櫻井よしこを支持する川淵三郎を見て、私は彼を見損なっていたんだと気がついた。

追記

 川淵三郎の会長就任、棚上げ!