ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

越境

 近所の公立の小中学校には学区が設定されている。しかし、中にはレベルが高いと思われている学校があって、そういう学校には昔から学区外からも通って来ている。自分にはほとんどなんの関係もないし、どうでも良いんだけれど、昔からあそこの学校に地下鉄やバスで通う小学生には、どうもエリート意識のようなものが感じられて、あまり良い印象がない。
 実は私も昔から越境通学していた。今から考えると、なんであんなに遠くまで通ったのかと思うが、別段そんな意識はなかった。昔住んでいた、とか、知り合いがいたとか、そんな関係だった。中学2-3年に越境して通っていた中学だけは別だった。なにしろ当時学区内に東大合格数一位という高校があり、その高校に1年に30人は受かるというのが自慢の公立中学だった。決してそんな高校に受かるはずもないのに、「教育ママ」だったおふくろが奔走して、いわゆる寄留という格好にして越境入学した。米穀通帳をおふくろと私の分だけ分割して、それを住んでいるということになっている地域に持っていって登録した。親は期待するのだ。
 三学年に44クラスあったその中学はマンモス校として有名で、川崎・横浜・その他の神奈川県・都内学区外からの越境通学者が300人ぐらいいた。最も遠いところからの通学者は大船から通学していた。区立の中学としては異常といえる。時として形式的な区のチェックがあって、通学定期を買うための通学証明書を出すことができない期間なんていうのが設定されるくらいだった。

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 実は東京都内にはこうした越境通学者が異常に多い中学がそれぞれの学区に3-4校は存在していたのではないだろうか。志望校をしくじってようやく底辺に近い都立高校に進学してみると、そうした公立のくせにやたらと進学熱の高い中学からやってきた連中がいくらもいた。当然越境通学者もいた。うちの次の駅から乗ってくる同期の女学生もいた。当時の都立高校は地方の公立と同じように、一部の私立校の次に偏差値が高かった。今の公立高校の格差の大きさに比べると、その差は比較的少なかったといって良かっただろう。しかし、とにかく「戦争」と言われるくらいの受験地獄だった。それで美濃部都知事になってから、学区制から学校群へ移行した。それがまた、エリート高校出身者からは疎んじられることになった。
 今は全く子どもの数が減ってしまって、公立の小中学校はいくつも合併したり、閉校したりして減っている。設定されている学区以外から通う子どもは昔よりも抵抗がないのかも知れない。それでも、越境通学している子どもたちになんらかの傲慢さが見られるのが気になる。利用する交通機関の中で、周囲に対する配慮が全くない。今の子どもたちが全般的にそうなのかも知れないが、地下鉄でもバスでも、傍若無人さが目につく。家でも学校でも、誰も何も云わないのかも知れない。昔だったら、乗り合わせた大人が「静かにしろ!」とか何かをいった。しかし、今ではそんなことをすると、かえって「電車の中で不審な大人に声をかけられた」といわれないとも限らない。甘やかすと大事にするの区別がついていないのかも知れない。
 

最後

 最期の最期に来た時、愛するものがもう意識もなくなっている時、それでもやっぱり一瞬でも良いから、長くこの同じ現世にとどまっていて貰いたい、と思うだろう。どうにかしてとどまって貰えないものかと思うだろう。
 しかし、それはどうしてなんだろう。生物にはその活動を辞める時が必ず来るんだと知ってはいるけれど、それは知識として知っているだけなんだよな。自分はその生存活動を辞めたことが一度もないんだから。自分が先に活動を停止していたとしたら、それは何ごともなく通り過ぎる自然現象のひとつでしかないのだ。おかしいなぁ。随分違うじゃないか。

集合住宅

 今の日本の法律では、分譲型集合住宅に入居するということが、即管理組合員となることを意味している。それをきちんと啓蒙するということを国や自治体はやっていない。分譲型を購入すると、自分のものなんだから、自分の好きにしてなにが悪い、と思っている住民が今でもいる。今でもいるという表現はおかしいか。次から次に世代が交代してくるんだから、これから先もずっといると思って良い。
 賃貸で入っているんじゃないんだから、なんで規制されなくてはならないのかと思っている。これをわからせるのは厄介だ。廊下に私物を出しておかないで下さいといっても、理解できなかったりする。そんな状態だから、管理組合の理事会当番が回ってきても、なんでそんなことを請け負わなくてはならないのかと思っている。金を出すから免除しろとまでいう人すらいる。登記上は旦那の名義になっているのに、理事会に出席してくるのはその奥さんだという場合が増えているという声も聞く。先日、理事会にいってみたら、半分は女性だった。うちの場合は共同名義になっているので、どちらが出席しても一票になる。そういう役割がイヤなんだったら一軒家に暮らすか、賃貸で暮らすしかない。
 そろそろ大規模修繕工事が近づいてきた。普通の集合住宅だったら、多くの場合10年ごとに工事をやる。その対象のほとんどが屋上の防水工事であり、外壁工事等の暴露部の工事だから、そのくらいの頻度でやることが普通だ。うちの集合住宅は、屋上の防水工事だけは10年目に実施したけれど、あとはそれほどの問題点が見つかっていないので、20年目まで延ばしてきた。これによって、修繕積立金の残高に余裕もでき、二回目の工事の予算にも目途が立ってきた。この手の建物では、エレベーターや、各設備のメンテナンス、新替に大きな予算を要する。予想外の出費は宅配ボックスの故障だった。これは予想していなかったので、痛かった。しかもこの時期、多くの住民が通販を利用するので、不便を被ることになった。
 エアコンも新築時に取り付けたものをそのまま動かしてきた。来年は取り替えなくてはならないだろう。夏がどうしようもなく暑くなるのはもうわかりきっている。新築当初はほとんどエアコンを稼働することがなかった。冬は陽射しが暖かいし、夏は風の通りが良いからだ。もうそれでは凌げない。トイレも入れ替え、ガスレンジもガスボイラーも取り替えてきた。ひょっとすると、20年近く暮らしてきて、この程度の機器の入れ替えで終わっているのは恵まれている方なのかも知れない。
 次にやってきそうなのは、バスタブだろうか。大分黄ばんできているようにも思える。
 それよりも何よりも、自分の蔵書を処分しなくてはならないだろう。それが一番気が重い。

ラジオ関東

 今じゃラジオニッポンとかいっていて、まるでネットウヨが主催してるYouTube番組みたいな名前になっているけれど、当時のラジオ関東は、横浜の青少年に多大なる影響を及ぼしていたのだった。ケン田島の「ポートジョッキー」、前田武彦、巨泉、永六輔三保敬太郎保富康午はかま満緒なんてのが、出ていた「昨日の続き」、VANジャケット大流行の時の「IVYクラブ」なんてのは覚えていたんだけれど、もうひとつ、女性アナウンサーの番組があったんだけれど、それが思い出せない。ミッキー安川を知ったのも、この局だ。
 「昨日の続き」は聞いていた人たちがかなりいたらしくて、ネット上でも様々な記録が残っている。提供が参天製薬だったこともそれで思い出した。この番組は時に外に出て収録することがあって、1966年の夏は当時まだあった茅ヶ崎のパシフィックホテル茅ヶ崎のプールで収録があった。ハガキを出してそれがあたって、茅ヶ崎までいった。このホテルが例の加山雄三や,彼の父親である俳優の上原謙なんかが共同経営だといわれていたホテルだ。のちに倒産して、加山雄三は夫婦で債権者から逃げ、欧州を放浪したと聞いたことがある。出演者でホテルに来ていたのは前田武彦だけで、彼の廻りに聴取者(昔はリスナーなんていったことがない)が取り囲んでいた。男の出演者はもう全員が鬼籍に入っているのだけれど、唯一の女性出演者であった、富田恵子(草笛光子の妹)だけが健在で、BSフジの実に、その、なんなんだという番組「クイズ脳ベルSHOW」に出てきたっていうのを聞いて、ビックらこいただけじゃなくて、懐かしいことをいろいろ思い出したのだ。

 1960年代前半といえば、中学、高校の時期になるんだけれど、なぜか、私の周辺にはBilly Vaughn and His Orchestraだったような気がする。それはラジオのテーマソング代わりに使われていた曲が多かったということにもあるのかも知れない。なにしろメロディアスな選曲だし、うるさくないし、後ろにかけておいて、話を載せるにはもってこいだった、ということもあるだろう。中学では昼休みに放送室からDJをやっていたものだ。やたらませた中学生がいたもので、あれは一体誰だったのか知らないのだけれど、そのテーマは「峠の幌馬車」だった。あれはもちろんBilly Vaughn and His Orchestraだった。
 良く聞いたのは「Among My Souvenirs」という元はといえばコニー・フランシスの歌で、これを実に上品なピアノにしているのもBilly Vaughn and His Orchestraだった。1960年代は後半に入ると、これはもうもっぱらThe Beatlesであり、私は完全に打ちのめされてしまって、勢い余ってGSにも突っ込んでいくんだけれど、当時はこの手の音楽を馬鹿にしていた。誰も聞いちゃいねぇよ、こんなのったりのったりした曲なんて、と思っていた。
 齢、古希を過ぎて、今じゃ非常にノスタルジックで、リラックスできて、できることなら、このあたりの曲で野辺送りをして貰いたいくらいだ。

この辺の話題はこれまでこのブログに何度となく書いていて、もはや辟易だ、といわれそうだ。


Among My Souvenirs

パソコン環境

 ネットで仕事をしているわけではないけれど、時として友人数人とネットで話すチャンスがあったので、折角だから、デスクトップのモニター上でカメラとマイクを設定してみたいなと思った。買ってみたウェブカメラをFacetimeで繋げてみたら、動きがカクカクするし、デレイが甚だしくて、気持ちが悪い。これじゃ、やっぱりタブレットで繋げた方が効率が良い。やっぱり、それなりの投資をしないと、そう簡単じゃないのか。
 友人がいうには、ミラーレスのカメラを持っているんだから、それを使えるはずだ、というのです。それでちょっとググってみると、それには「キャプチャデバイス」なるものが必要なのだそうで、IO DATAのGV-HUVCなんてのがあるよと書いてあるんだゑけれど、それって2万円もするんだっての。驚いちゃうなぁ。しかし、この辺のことはゲームに熱中している人たちが一番良く知っているのかなぁ。

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 ペンからフェルトペンから、なにもかもいくつもの空き缶にさしてあるんだけれど、そこからブルーレイカットの眼鏡を発見。なぜか知らないけれど、今度のモニターはなかなかブルーレイがカットできないような気がする。

 台風の余波が概ね解消されたみたいで、夜空は雲が見えなくなり、あっ!星が出ているといって、夜空を見回したら月齢19の月が、夜遅くになって東の空に見えていた。

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台風余波

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 台風10号は相当に大きな規模だったらしくて、こんなに離れたところにまで風に流される黒い雲がやってきては、周囲が真っ白になるほどの豪雨をもたらしてくる。あれよあれよという間にやってきて、あれよあれよと流されていく。台風至近はどんな状態なのか想像もつかないぞ。韓国はこの10日間で三つ目の台風の上陸だと報じている。それも辛いよなぁ。

散歩

 しばらく早朝の散歩をサボりました。もう暑くてイヤだから。しかし、今日は台風の余波で、朝から雲が垂れ込めていて、よし、これなら街中にいっても大丈夫だろうと、ビックカメラに買い物に行った。すると、やけに店員さんがいっぱいいる。余裕のよっちゃんだった。なんでだろうと思ったら、今日は日曜日だったのだ。なにも日曜日に出かけなくても良さそうだけれど、たまたま涼しかったのだ。
 デスクトップにはカメラもマイクもついていないので、折角27インチのモニターにしたのに、これではオンライン・呑み会にも、小さな画面のタブレットか、スマホでしか参加できない。で、ウェブカメラも200万画素で、マイク付イヤフォンがついているのを見つけた。店員のおじさんがこれでも十分ですよ、というので買ってきたら、なんとも綺麗に映らないし、マイク付イヤフォンは良く見たら窓機のみに対応って書いてあるじゃん。安物買いの銭失いである。
 もうひとつはマウス。これまで使ってきた有線のマウスの反応が、機械を新しくしたら、とんと鈍くなってしまい、かったるくてしょうがない。で、Applemagic mouseがあるんだけれど、これが持ちにくくて使いにくい。それでbluetoothの大きなマウスに買い換え。バッチシで、楽になった。

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 どこかでランチをしようと思ったのだけれど、日曜日なので、こんなコロナ下にもかかわらずワンワンと人は出ていて、怖いからさっさと帰ってきた。途中で天麩羅屋さんの売店で小海老のかき揚げと牛蒡の天ぷらを買ってきて、うちで天ぷら蕎麦にした。牛蒡の天ぷらが旨い。
 シャワーを浴びて寝る。目が覚めたらザーザーといって雨が降る。