ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

寒さつのる

 朝から雲が広がっていて、寒い。
 つれあいが病院に行って生検の結果を聴いてきた。まずまず何ごともないけれど、胃に若干の荒れがあると。一年ごとに内視鏡で検査をするようにといわれたそうだ。彼女の実家は結構病弱で、本人も小学校の頃はなにかと病弱をいわれていたんだという。義父は最後はほぼステージ4まで行ってしまった。義母は心筋梗塞だった。義理の弟は膠原病をいわれていて長いこと苦しんでいる。
明日は自分が結果を聴きに行く。

 三回分の宝くじの当選番号を見た。安定の300円ポッキリだった。

 墓石を削り直すことにした。うちだけではなくて、すぐ上の姉の夫婦も入れるようにしようと云うことで、家の名前を彫ってあるものを削り直して、ただひと文字を彫るだけにしようという考えだ。そうすれば誰が入ってもいても文句は言われないだろう。一体誰が文句を言うのか、ということだけれど。そう解釈すれば、そのままにして、誰も彼も入れれば良いじゃないかという理屈でもある。彫り直して綺麗にすると25万円かかるという見積もりだった。どうせなんだから墓全部を綺麗にしようという考えもあるし、彫り直すだけで良いじゃないか、という考えもある。あの歌ではないが「私はそこにはいません」なんだから。

 

f:id:nsw2072:20201111225556j:plain:w360:left 久しぶりに耳鼻咽喉科を受診。先生の手元のカルテによると(珍しくここでは今でも紙のカルテ)最後に来たのは2年半前だったそうだ。私の耳道は性格と同じようにひねくれていて、普通の人だと自然に耳から出ていくはずの耳垢が、でていかないそうだ。それでなにが起きるのかというと、鼓膜がふさがれてしまう。すると聞こえにくくなる。ここのところなんとなく、感じていたのだけれど、今朝、目覚めに右のイヤフォンを耳に入れたら聞こえる音が小さくて、左のイヤフォンを入れるとようやくはっきり聞こえてきたことによって、あぁ、やっぱりね、と認識した。
 行きつけの耳鼻咽喉科は通常だとほぼ小児科じゃないのか?と思うような状況を呈しているんだけれど、覗き込むと今まさに診療室から戻ってきて泣きじゃくる子がお母さんにしがみついているだけで、あとは若い女性がおひとり待っているだけだった。見て戴くと「あ、はいはい!」という調子で、すぐさま横になり、耳にいつものようになんたらの液体を入れて耳の中をふやかし、そして先生がバキュームで吸い出してくれる。以前のように「スッポン!」という感覚ではなかったけれど、綺麗さっぱり取って下さったそうだ。しかし、いちいち吸い取れたものをそのままお見せ下さるのには、まいった。
 おかげでなんだかさっぱりした。「年に一度は来た方が良いですよ!」と先生の声が響いた。帰りに気分が良くなって、帽子をひとつ買ってしまった。

キューポラのある街

 1962年の日活作品。監督は浦山桐郎だけれど、脚本が今村昌平浦山桐郎。モノクロ、日活、99分。当時私は中学三年生だった。この映画を見た記憶がない。在日朝鮮人の北への帰還事業が盛んだった当時(といっても1980年代まで続いていたんだけれど)の川口。北へ帰れば平等の社会が待っているはずだった,あの頃。
 吉永小百合が若い。撮影時(1961年か)吉永小百合は16歳、それで中学三年生の役。弟役の市川好郎は14歳、こんな頃から芸能界で演じていたんだね。彼は45歳の時にくも膜下出血で他界している。後から後から、「あ!これは!」という役者が出てくる。菅井きん東野英治郎加藤武、杉山徳子、北林谷栄殿山泰司吉行和子・・・そういえば最近、東野英治郎の息子、東野英心を見ないなぁと思ったら彼ももう既に2000年に脳出血で急逝。58歳だった。(NHK BSP :来週は「愛と死を見つめて」)


キューポラのある街【予告編】

NHK BSP :来週は「愛と死を見つめて」)
 原作は1963年(私は高校一年生)に刊行されたマコとミコの三年間の交換日記で、なんと160万部を売ったという。もちろん私もこれを読んだ方で、これに触発されて、当時の高校の同級生6名で交換日記を書いていた。あの数冊になるノートは誰のところにあるのか、もうとっくに捨てられちゃったのか、わからない。今になって読み返してみたい気もするし、読めない方が良いかもしれない。6名の中にはもう名前が思い出せない人もいる。今井、杉田、上野、森、茂呂かなぁ。映画が吉永小百合浜田光夫だと聞いた時には,全然イメージが違うといって見なかった。

蟄居

 日がな一日家から出ず。かつてインストールしていたFile maker Proというアプリで大量にファイルしてあった資料を、そろそろ読み返そうかととりだしてみて驚いた。あれから二台新替えしたパソコンの中に、そのアプリケーションが見当たらない。確かにClarisからダウンロードだったかも知れないが、買った記憶があり、その記憶があるからこそ、そのファイルができていたのに、全く見当たらない。いつなくなったんだろう。これがOSバージョンアップの怖いところで、今のOSになってから多くのアプリケーションが使えなくなって、新たに買い足さなければならない。マイクロソフトのOfficeで作ったファイルは大量にあるが、悔しくて、他のアプリケーションで開けようとするが、やっぱり使いにくくて、とうとう買ってしまった。Acrobatもいつの間にか『買え!』といっている。
 File Maker Proは買い換えると4万円はする。冗談じゃない。思案投げ首だ。無料お試し版というのが45日間仕えるという。これを落としてきて、ファイルを開け、一枚一枚のデーターを取り出して、appleに同梱されているnumberにデーターで移し替えるという、実に美しい人海戦術に訴えることにした。モニターを見続け、細かい字を見つめることになって、往生している。

 遠藤雅子という著者の名前はちょっとオーストラリア関連本を囓った人だったら聴いたことがある名前だと思う。この本に、福島の修道院に抑留されていた「ナンキン」号乗客の話が載っていたとは知らなかった。
【追記】このタイトルにある『赤いポピー』は昨日の、英国首相、ボリス・ジョンソンが胸につけていたあの赤い花のことだ。11月11日がRememberance Dayで第一次世界大戦の停戦協定に署名された日で、その頃激戦地だったフランダース地方には赤いポピーがびっしりと咲いていたんだそうです。英国ってところはこういう募金がとても盛んで、そういう風習がそのまま豪州にも持ち込まれていて、例えば小児癌の子どもたちを支える募金とか、その類いの募金を主に高校生が駅近くに立って呼びかけます。日本では既に赤い羽根募金すら、10月1日以外に見ることが少なくなりましたねぇ。
 この本は第二次大戦中、福島の修道院に抑留されていた『ナンキン』号乗客、乗員について、著者が解明する展開が書かれている。私が福島の修道院を見学したのは2010年6月のことで、あれからもう10年が経つ。東日本大地震で、あの記念するべき修道院はダメージを受け、修復不可能として、取り壊されてしまった。

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【追追記】
「赤いポピーは忘れない」を読み終えたのがRemembrance Dayの11月11日だったというのはなんだか、面白い。もっと早くこの本を入手しておけば良かったと、後悔した。著者の遠藤雅子は戦後日本から豪州へ初めて豪州兵のお嫁さんとして渡った女性についての著書を著していた。「チェリー・パーカーの熱い冬 」という 1989年刊行の本で、私はこの本を大学の図書館で見つけてコピーを持っていたのではなかったかと思う。
 福島での「ナンキン」号を中心にして捕虜となって抑留されていた敵国抑留者たちは、福島に連れてこられてから約二年、どこにもその情報がもたらされることなく、多くの場合、死亡宣告までされていたらしい。「ナンキン」号は結局、ドイツ軍に接収されて運行されていたが、1942年11月に横浜港で起きた、ドイツ船4隻の大爆発事故で破壊された。この大事故(ノルウェー兵士による爆破工作ともいわれていた)でドイツ軍将兵750人は行く先を失い、少しずつあとからやってくる船で帰国するが、それでも残された約130名が終戦から二年後まで収容されていたのが、なんと箱根・芦の湯の松坂屋本店だったというのには、目を瞠った。子どもの頃父親に連れられて、何度も訪れた硫黄温泉の宿であった。父親の古い写真を見ると、戦後すぐの頃からこの宿を使っていた様子がうかがえる。1942年11月といえば父親はすでに横浜の船舶修繕ドックで働いていたはずで、この事故のことも知っていたはずだ。2010年に訪れた福島の修道院と、箱根の温泉宿が繋がるとは思いもしなかった。

あの補助金かな?

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文字で商店街再発見 キックオフデー
奥の細道「矢立初めの地」である荒川区南千住地区6商店街と、川柳発祥の地である台東区の浅草国際通り商店街連合会でイベントを開催。キックオフのこの日は浅草ビューホテル2Fにてバンド、マリンバ、落語のステージイベントや子ども向けパズル体験会などが行われる。11/8~12/20の期間は商店街クイズラリーも開催。毎年恒例の俳句・川柳も募集する。

 今日の余興に金原亭馬生さんがお出ましだと聞いて、ビューホテルの二階のテラスに上がってみると、高座がこしらえてあった。馬生さんの前に、前座の時には駒六といった金原亭馬太郎があがって「雑俳」をやった。なるほど、今日の趣向には丁度良い。「一の字 一の字 一本歯の下駄のあと」である。

 川柳についてはウィッキペディアには「江戸中期の俳諧の前句附点者だった柄井川柳(からいせんりゅう)が選んだ句の中から、呉陵軒可有が選出した『誹風柳多留』(はいふうやなぎだる、後に柳樽と称される。1765年-)が刊行されて人気を博し、これ以降「川柳」という名前が定着した」と書いてございます。柄井川柳が最初の万句合を興行した場所の推定跡地だという東京都台東区蔵前4丁目37(三筋二丁目交差点の南東角)に「川柳発祥の地」の碑が建っているんだけれど、川柳その人の出は竜泉なんだと馬生さんが解説をする。
 馬生さんの枕で、感心しちゃったのが、「挙げ句の果て」も「二の句が継げない」もみんなこの世界から出た言葉だという。連歌連句の五・七・五の17音からなる第1句を発句(ほっく)といい、その次が「二の句」で、馬生さんに依れば、発句が良いもの出ないと、「二の句が出なくなっちゃう」ンでそういい、「最後の七・七の句」を「挙げ句」というんで、ここから出た言葉だというんです。毎度のことながら、馬生さんの枕は勉強になるんでございますよ。
 で、始まった落語が、こりゃ珍しい「和歌三神」という噺です。私は初めて聴きました。雪の日に権助を引き連れてご隠居が向島へ雪見と洒落ます。すると、川辺で三人のおこもさん(つまり今でいうホームレス)が酒を喰らっています。酒が切れたようだと、権助に瓢の酒をお分けしろといいます。三人がそれぞれ名前を名乗って歌を詠みます。

  • もとは康といったが今は秀と呼ばれていて、土手を通る馬の糞の片付けを仕事にしているから、「糞屋の康秀」で、「吹くからに秋の草夜はさむしろの 肘を枕に我はやすひで」(百人一首文屋康秀『吹くからに秋の草木(くさき)のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ』)
  • 隣の男は垣根の下で丸くなって寝てばかりいるので、「垣根の本の人丸」と言うあだ名で、「ほのぼのと明かし兼ねたる冬の夜は ちぢみちぢみて人丸く寝る」(柿本人麻呂: あしびきの 山鳥(やまどり)の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む)
  • お稲荷さんのところにいるから『稲荷平』と呼ばれている 千早ふる神や仏に見放され かかる姿に我はなり平(在原業平:千早(ちはや)ぶる神代(かみよ)もきかず龍田川(たつたがは) からくれなゐに水くくるとは)

 誠に今日の趣旨にぴったりな噺。このあと「干物箱」をやってくれたんだけれど、この中にはおとっつぁんの代わりにせがれがでた句の会の抜きを読む。巻頭の句が「親の恩夜降る雪も音もなし」、かんじ句が「大原女や年新玉の裾流し」
 ここにもちゃんと句が出てくる。こういうところはさすがでございます。
 これで終わりかと思ったら、なんと馬生さんと馬太郎で、歌舞伎の仮名手本忠臣蔵・五段目、斧定九郎と与市兵衛のやりとりを面白おかしく演じてみせる『茶番劇』。若い馬太郎に爺さんをやらせ、73歳の馬生さんが定九郎。茶番劇というのは、その昔、街の素人衆が余興にやった芝居をいい、みんなが寝ちまわないように、濃いめのお茶を配ったところから来ているんだと、ここでも馬生さんの解説付き。なんせ馬生一門は芝居が好きで、毎年2月には国立演芸場で『鹿芝居」をやる。最後のおまけに馬太郎と馬生さんでかっぽれを踊ってみせる。これもまた一門のいつもの趣向。

地球TAXI横浜

 朝、テレビをぼぉ〜ッとつけておいたら、横浜の市歌が聞こえてきた。NHK BSの地球TAXIという番組だ。横浜のタクシー運転手が出てきて、彼が唄っていた。懐かしい歌だ。小学校では必ず唄った。校歌も歌ったけれど、この歌は良く歌った、ということをここにも以前に書いたことがある。そして私が横浜から転校したあと、横浜港開港百年記念の歌というのもあった。そうした歌が一緒くたになって、ごちゃ混ぜになりかねない。
 横浜市歌は1909年(明治42年)だから、その歌詞のまぁ古くさいこと。

わが日の本は島國よ 朝日輝ふ海に
連り峙つ島々なれば あらゆる國より舟こそ通へ
されば港の数多かれど 此横濱に優るあらめや
むかし思へば苫屋の烟 ちらりほらりと立てりし處
今は百舟百千舟 泊る處ぞ見よや
果なく榮えて行くらん御代を 飾る寶も入り來る港


【歌詞付き】 横浜市歌 高音質