ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

バカか

 わが偉大なる東京都知事たる小池百合子は寒くなるからトックリを着ろといった。
わが偉大なる経産大臣たる西村 康稔(にしむら やすとし)は寒くなるから重ね着をしろといった。
 お前たちはバカなんだな。そんなことは誰でも知っているし、昔からそうしているよ。しかし、お前たちにいわれる筋合いはない。お前たちがしなくてはならないことは、エネルギー政策を大きく転換して、この国を核汚染から防ぎ、地球温暖化を一日も早く食い止め、快適な生活を国民が送れるように、頭を捻り、工夫し、解決策をひねり出すことなのである。うちの死んだおふくろじゃあるまいし、「寒いから着なさいよ!」なんてことをいうんだったらあんたらに頼まないよ。金返せ!

そういうもの

 朝からどんよりと雲が垂れ込めていて、鬱陶しいから電車で出かけるプランに切り替えようと、準備を始めた。しかし、そんなときに読むべし、と思っていた本が見当たらない。途中まで読んでいて、こんな電車に乗るときのための本だ。いくら探してみても見当たらない。もうかれこれ40分ほども探したけれど見当たらない。
 もうカッと来て切れちゃいそうな時にもう一度バッグの中を探ったら・・中から出てきた・・・。
 もう焦燥潰えて出かける気にならなくなった。そんなもんだな・・。

営業を終了


 このCOVID-19の影響で商売をやめてしまった店は枚挙にいとまがないだろう。それはそのまま経済の停滞に繫がっているはずだ。ファミリー・ビジネスはこういうダメージには弱い。

 清水の三保灯台のすぐ横にあった三保園ホテルは2021年の3月末で閉鎖に至ったそうだ。泊まったことはないけれど、友人の結婚披露宴では何度か行ったことがある。1973-4年ころに工場の同期入社の友人がここで結婚披露宴を開き、その司会をやったのが生まれてはじめての披露宴の司会だった。当時はバックミュージックを流すとか、両家のお母さんに花束を贈呈する、お色直しから入場する時にキャンドルでろうそくに火をともして歩く、なんてことは普通ではなかったので、ホテルとの打ち合わせには結構手間取った記憶がある。末席に作ってもらった自分の席の横にマイクを置いて、カセットテープレコーダーを持ち込んで音楽を流したりした。

 工場に常駐する発注主の代理人(スーパーヴァイザーと呼んでいた)が長期間滞在する宿舎がこのホテルの直ぐ側にあって、古いけれど、メゾネットタイプのアパート三軒と単身滞在用の部屋が三部屋別棟であり、そこにはアメリカ帰りの60代の女性にハウスキーピングをしてもらっていた。
 ちょっと歩くとすぐに灯台があって、砂浜が広がり、海の向こうには富士山が見えるという大変に風光明媚なところだったが、なにしろ商店がそばにあるわけではないから、車を持たない人たちには不評だったが、車さえあれば、今でも暮らしたいような環境だった。
 もう三保にはほとんどお客を泊めるような施設は残っていない。わずかに羽衣の松の近所にひとつ、二つ残っているだけだ。観光地としての三保の役割は終わってしまったのかも知れない。それでも何年かに一度は戻ってみたい。

スパイ

 アメリカで生まれて育った人がアメリカに暮らすままロシアのスパイになる、あるいは日本で生まれて育った人が日本にそのままいて中国のスパイになる、というのは考えられるが、ロシアで生まれて育った人がアメリカでロシアのスパイをやるとか、中国で生まれ育った人が日本で中国のスパイをやるというのはちょっと考えにくい。
 というのは、喋り言葉ですぐにバレるからだ。微妙なイントネーション、あるいは日本語でいえば「てにおは」の使い方。すぐにバレる。そして難しいのは慣用句。これはいくら教えてもらってもなかなか理解しても身につかない。そしてもっと難しいのが、子どもの頃から自然と身につく歴史的言葉や昔話のような類。例えばおみやげにお団子を貰って「はい、はい、家来になりますよ」といったら、日本人だったらそれは桃太郎から来ているんだろうなと理解に及ぶけれど、その習慣の中に育たなかったら、わからない。そして、そんな類はどれだけ勉強しても網羅できるかどうかわからない。
 戦争映画で通りかかった味方部隊の上官のちょっとした言語の行き違いから、米軍兵士がこの部隊がドイツ軍のスパイ部隊だと見破るなんてのはあり得ることだけれど、そうそう簡単な話じゃない。ドイツ軍の上官はアメリカ生まれの英語を喋ったということになるのだろうか。この映画ではこの偽米軍の上官が「July the 4th」を知らなくてバレるんだけれど、こんな程度じゃそりゃバレるよ。
 そうすると、戦争前に日本にやってきていた帰米二世の日系米国人が日本に帰化して太平洋戦線で投入されていた日系米人語学兵に化けるという筋書きがあってもおかしくはないかも知れない。
 しかし、こういうスパイ見極めの習慣が身につくと、ちょっとそのたぐいを知らない人に遭遇すると、もうその人を信用しなくなる可能性がある。
 
 関東大震災のあとの朝鮮人や中国人を無闇矢鱈と暴行に晒した事件が教訓として残した事実はこのたぐいの誤解というか、パニックでの無教養の怖さを象徴している。特定の言葉を発音させてそれが正しくないと、それっといって暴行を加えたと聞くと、恐ろしい。
 そんな事実をかつての東京都知事は9月1日に挙行されるそうした犠牲者を慰霊する催しに際して、言葉を送ってきていた。それを小池百合子は就任以来ずっと無視してきている。彼女は無言のままあの暴行事件を否定する姿勢を見せている。ただ単に続いていた習慣を辞めた、というだけのことではない。こういうやらないという行動がこの国の歴史を公的に否定しているんだということだ。
 私たちは、それほど大したことではないと思っているけれど、この国の歴史を無視する、あるいは解釈を変えるという行為を公的に行っているということなのだ。

 旧統一協会がやってきたことを白日の下にさらけ出して、誰が何をやったのか、そして誰を傷つけたのかを明確にしない、ということは、彼らがやってきたことを隠蔽して、犠牲者を無視するということである。そしてそれをすることによって、誰が得をしたのかを有耶無耶にするということである。関東大震災の事件も、そして旧統一教会がやってきたことも、それに絡んで政治が動いてきたことも、有耶無耶にすることによって何が起きるのかといえば、歴史が変えられてそれを呆然と見送るということである。

財務省が佐川某も絡ませて、安倍晋三に忖度してきたことも、このまま有耶無耶にしてはいけない。それはこの国とその歴史を冒涜することになる。

宣伝

 昔の小三治の録音を聞いていたら、まくらでちんどん屋の話を振っていた。関西では「東西屋」とか「ひろめ屋」とかっていっていたというんだね。つまり「チンドン屋」ってのは関東の呼称なんだろうか。
 子ども心にちんどん屋が来ると、ワクワクして飛び出していったような記憶があるけれど、実家のあたりでは坂道だったから、来るわけなくて、あの音は下の商店街から響いてきていたわけだ。よくちんどん屋さん御一行があの格好のまんま電車に乗ってきたりしていた。間近で見ると、結構なお年の人たちで、厚化粧が痛々しかった記憶がある。ペーソスあふれる松竹映画あたりで描かれそうだ。
 もっと小さい頃は、小さなセスナが飛んできて、上空から拡声器で宣伝文句をがなり、チラシをぶん撒いた。チラシはキラキラと輝きながら、風にのって流れていく。それを通りを曲がり曲がり追っかけて行くうちに思いも寄らない方まで行ってしまった記憶もある。よく帰って来られたもんだ。こんな方法はもう許可にはならないのかも知れない。

あっという間に

 編者:荻上チキ 協力:TBSラジオ Session

 あっという間によくここまでまとめたものだ。イベントも行われ、その有料配信も提供されていて、荻上チキもさることながらTBSラジオがここのところ「明日のカレッジ」も含めて良くやっている。澤田大樹記者、武田砂鉄、青木理というメンバーが検討している。その点では、ネトウヨがTBSに「偏向報道をやめろ日の丸デモ」をかけても揺るがないで欲しい。偏向報道といったら、そりゃTBSよりもフジサンケイグループ(産経・フジテレビ・ニッポン放送文化放送)だろうよ。

 例の蔵前のなんとかという至ってよくわからない新しい古本屋で見つけた。メスナーが書いたマロリーの本である。なんと百円ポッキリだった。山登りにはなんの興味もないが、ジョン・クラカワーの「空へ」以来、このあたりのエベレストに絡む人の話には興味がある。私の興味の持ち方はかなりこんがらがっているのである。

ところでなんでAbema TVは無料でサッカー・ワールドカップの全試合を放送できるんだろう。

11月25日

 2015年の小林秀雄賞受賞作である。
帰ってきた男は誰かというと、著者・小熊英二の父親、謙二のことである。
冒頭に11月24日は初めてB29の編隊が東京にやってきたと書いてあり、11月25日は19歳の謙二が出征したと書いてある。シベリアにまで連れて行かれ、彼が生きて復員したのは4年後だったそうだ。
 小熊英二が父親からとても丹念にそのライフストーリーを聞き取っている。なにしろ子供の頃に引き取られた母方の祖父母の高円寺の二軒長屋の図まで描いてある。

 私も父親の話をもっと詳しく聴いておけば良かった。なにしろ、口を利くのも嫌だった時期が長くて、ほとんどオヤジの人生について聴いた記憶がない。小学校へ入った頃に本郷に連れて行かれて、オヤジが下宿していたあたりを歩いた記憶はあるが、それがどこだったのか、全くわからない。オヤジが大学を卒業したのは昭和11年(1936年)で、2.26事件があった年の春である。翌年には日中戦争に突入してしまう。就職先がそれほどあったわけではないらしく、小さな造船所に入って、最初に担当したタグボートの図面だったか、完成写真だったかを晩年アルバムに貼っていたような記憶がある。いつ、北支へ三年いったのかも詳しく聞いていない。
 終戦を横浜で迎えたらしいことは知っているが、私が生まれた丘の上の社宅群が一体いつ作られたのか、何も聞いていない。もはや手遅れだ。