ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

nsw20722006-06-21

【通勤途中でいつも通りかかる神社に 茅の輪が造られていた。お祓い、お祓い。→6月27日に通りかかったらもう茶色くなっていた。】
今朝は猫に振り回されている。午前4時45分、手を噛んで起こす。なるほど餌が空である。こいつも頭が良いんだなぁ。ところが午前6時前にまた枕元で、みゃぁ、みゃぁと鳴き続ける。餌はある。それでも起きていくと満足そうにあっちへ行ったり、こっちへ行ったり。ちょっと呆けてきたかも。


日銀総裁

 福井君の年収は3570万円あって、小泉の年収より一割ほど安いのだそうだ。その上一年働くと700万円分の退職金が加算されるのだそうだ。それじゃぁ1000万円なんてはした金だね。本当に「阿呆」なおやじだと呆れ果てる。こいつの頭には「正義」とか「名誉」とか「義侠心」とかいう言葉はないんだろうなぁ。それでもまだしがみつくか。

高齢学生

 昨日のことである。テレビ東京の「なんでも鑑定団」を見ていたら奈良からの録画。その中に奈良絵本なるものを持ってきたおじさんがいた。家に伝わるその奈良絵本をすらすらと読める様になりたいからと大学に行っているのだという。67歳と云うことだった。大学に行くと、あの種の書き物がすらすらと読める様になるものなのだろうか。どんなところに行くとそのような知識を手に入れることができるのだろうか。江戸期の草紙の類ぐらいで良いのだけれども私も読める様になってみたいものだと思う。

だんだんと

 ここのところ仕事が段々と増えてきている。なんだかコンピューターにとりついて資料作成やら、人海戦術確認行為に専念している。今日もまた会議である。
 だから「このように準備中」って人がメールに書いたんだから、それを準備する用意があるならば「いや、こっちで準備していきますよ」と返事をくれたって良いじゃないのよ。わたしゃ一人で大量カラーコピーに囲まれておった、というのが今日の愚痴。
 最後は眠い目をこすりながら何度もメールをチェックしていた。これから先暑い中どんどん忙しくなってくるのかと思うとぞっとする。
 そんな中友人がMac Bookを持ってきてwindowsを立ち上げて見せてくれる。なんだか変である。大きさはiBookの14”の横を長くした感じ。重さもほとんど変わらない。今の仕事を辞めたらそれほど要らない。そうしたら、むしろ前のPower Bookの12”が欲しい。あれの方が軽いのだ。それとも持ち歩きのためには思い切ってwindowsにするとか。

カルガモが

 ちょっと休憩とタバコを吸いに出て、プールを見ていると、人が泳いでいるわけでもないのに時々波紋がたつ。それがヒマラヤスギに囲まれているので、何がいるのかよく見えない。回り込んで見てみると、なんとそれは痩せたカルガモのつがいである。それがまたのんびりとすっと進んでは惰性でふぁ〜と動いていたり、Uターンしたりで余裕である。こういう時に限ってズームの効くカメラを持っていない。尤もそんな時までカメラを持って歩いていなくちゃ「カメラ小僧」ではないな、と肝に銘じるのである。今度からそうする?そういえば昼の弁当を買いに行く時は持って出たっけなぁ。

銀行撤退

 家からJRの駅まで歩いて16-7分程の間に昔は銀行が二つに信用金庫が二つあった。その二つの銀行が合併した。それは交差点のあっちとこっちにあった。それで、こっちを閉店して、どうなるのかと思っていたらマンションになった。その近所にその銀行がATMを設置した。そこには5-6台のテリングマシーンがある。何でまたこんなところに造ったんだろうと思っていたら、なんと銀行がなくなってしまった。残ったのは地元の地味な信用金庫二つとATMがこれまで周囲にあった二ヶ所に今度の新しいのを入れて三ヶ所である。さて、じゃ、銀行はどこにあるのかといえば、東に約1km強いったところ、南にやはり同じように行ったところ。西と北はよく分からない。この近辺には郵便局が2-300m以内に三ヶ所ある。この三ヶ所も小泉おっさんのおかげさまで早晩集約されることだろう。そうなると預貯金をおろすのは銀行のATMやそれに準ずるコンビニやマックに備えられたATMということになる。誰にも助けてもらえないどころか、手数料を払っても「ありがとう」の「あ」の字もいわない機械とこれから先つきあって行かなくてはならない。
 若い人たちはどんな機械でも、マニュアルなんて見ないで、「ちょっと貸してみ」とかいってちゃっちゃと使いこなすから良いだろう。携帯メール一本書けない爺さんやばあさんは一体どうするっていうのかね。駅で切符だって、めったに電車に乗らない人には買うのは難しい。最近駅の切符売り場で上を見上げている高齢者をよく見る。一体ここからあそこに行くにはどこで乗り換えたらいいのか分からない。どこの乗り換えが一番高齢者にとって楽かも知りたい。でも駅にはそんなことを教えてくれるものは何もないのだ。みんな勝手しったる若い人ばかりである。そして、その若い人たちは、「おい、邪魔だぞ、爺」とでもいっていそうにちゃっちゃとすり抜けていくのである。
 つまりこうして私有化、効率化、省人化をどんどん進めていくと、どんどん高齢者に優しくない社会になっていく。これからどんどん高齢者が増える社会になるというのに。これと同じように、特殊出生率はどんどん下がっていく。どうして?子どもを育てるのには、やりにくい社会にどんどん移行していくからである。
 結論。政治というものは世の中の先を読んでそれに対処できる仕組みを頭を振り絞って考えるという行為をいうの。そのためにはお礼もお支払いしたって良い。しかし、儲けたいといっているやつが、人を追い落としても良いから儲けて、それで何が悪いか、という社会に飛び乗って美味しい汁を吸うためにあるのではないのだ。
 最後にヨイショしにいくために、本当に国民にその仕組みと安全性を詳しく説明もしていない牛肉を買いますよと宣言したり、いつの間にか持ち込ませないはずだった原子力空母を簡単に受け入れることになっちゃったし、私たちはいつからこんなに卑屈な暮らし方をすることになったのだろう。

団塊相手の商売

 さぁ、これからやってきましたぜ、とばかりに団塊相手の商売が真っ盛りだとテレビではあっちをひねってもこっちをひねってもそんな特集ばかりしている。ドッコイこの世代よりも金を持っているのはそのまた上の戦中生まれ世代に決まっているじゃないか。彼らは右肩上がりの時代に稼ぎに稼いできたのである。その分頑張った。バブルの時代を本当に牛耳っていたのは中間管理職だった団塊世代なんかじゃない。その上の力を持った世代だったはずだ。見切りをつけて不動産屋に先祖伝来の土地(いい方が古いかなぁ)をうっとばして郊外に引っ越すことのできたのはそんな世代だ。しかも彼らは年金ばっちりである。団塊はまだ年金には至らない。やれ、ダンスだ、海外旅行だ、移住だ、といった類のテレビのワイドショーの特集なんてずっと前からやっていた。温泉の救世主たるダンス集団を見て欲しい。決して団塊の世代ではなくてその上の世代である。
 今日テレビに出てきた大手広告代理店のH社(これじゃどっちか分かっちゃうが)の団塊とおぼしきおっさんが「すっぽりはまればいいが、はまらなかったら最悪。団塊はみんなで一緒に動くから」といった。分かってねぇなぁ、こいつは。いくらこれまで「団塊は一人では何もできない。やる時はトイレもみんな一緒」なんてラベルを貼っていたからってこれからもそのまま同じ切り口で判断できるかと思ったら大間違い。こんな与太に揺さぶられちゃダメですぜ。それにしてもみんなこの年になってエレキ持ちたがるなぁ、本当に。

ブックオフっての

 職場から歩いて15-6分の私鉄駅近辺にブックオフができたのは半年ほど前か。歩く時はその前を通らないで駅まで行くし、その前を通る時はバスに乗っているというわけで、これまで入るチャンスがなかった。たまたま歩いているうちにそれを想い出して方向転換して入ってみた。うちの近くのブックオフは入ったフロアー全部がコミックとゲーム、そしてDVDの類である。しかし、ここは入口から3/4ほどが全部きれ〜にコミックであった。この近辺にはあと二ヶ所古書と書いている店があるが両方ともほとんどコミックである。今やコミックだけで商売になるんだなぁと感心する。そういえば電車の中でずいぶんと多くの人がコミック本に読みふけっているものなぁ。今日なんか前に座っていた初老のずいぶん金のかかっていそうなスーツに洒落た老眼鏡かけた人が大事そうにコミックを読んでいたもの。で見つけたのはこんな具合。

  • 「オーストラリア式人生」大矢志誠 鳥影社 1999 オーストラリアに単身移住し、結婚し、豪州国籍をとった著者の話。
  • 三島由紀夫楯の会事件」保阪正康 角川文庫 2001 1980年に講談社より刊行された「憂国の論理 三島由紀夫楯の会事件」を加筆・訂正・再構成し、文庫化したものであると記してあり。細かい文字でびっしりと印刷された年表が付いているのだが、老眼鏡を掛けてもちょと辛い。
  • 「玉砕の島 太平洋戦争 激闘の秘録」佐藤和正 光人社NF文庫 2000 1980年にKKベストセラーズから刊行されたものの文庫化。著者は1932年生まれ。
  • アッツ島玉砕戦 われ凍土(ツンドラ)の下に埋もれ」牛島秀彦 光人社NF文庫 1999 原著は1984年に世界文化社から刊行された「われ凍土(ツンドラ)の下に埋もれ」であるが、あとがきによればその元は世界文化社の月刊誌BIGMANの1982年3-6月号の短期連載である。上の佐藤のソロモンの玉砕戦に関する書でもそうだが、この種の著作は一件戦史物とでもいうか、際物の類と見られそうだが、実は大いなる戦争批判であることを私はごく最近気が付いた。そうなってみるとこれらもそうだけれども、丹念に古書店を探すことになる。ま、尤もおじさん達はこの辺の本を結構読む。