ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

儲かる奴が儲からないと

 エネルギーを使うという形で最も普遍的なのは電気で、この国の場合だとその次はガス燃料かも知れないな。発電するのには様々なエネルギーを消費するけれど、化石燃料を消費するものと、原子力によるものがおおよそを占めている。
 この他に化石燃料でも、原子力でもないエネルギー源を使って発電する方法はいくつも考え出されている。大がかりにやろうとするとこれまで先行している発電方法が効率的ということになるのだろうけれど、それは実は電力企業によって一番儲かりやすい、ということなのではないだろうか。
 というよりはこれまで利用されていないエネルギー源を用いるとそれぞれの規模が小さくてそれを集めてうまい具合に送電して使うには使いにくいということになるのだろうか。それでもこの国は送電網が大変に発達しているようだから、電力も地産地消でなくても良いのではないのだろうか。
 たとえば地熱発電風力発電、あるいは波動発電なんてものでは規模が小さすぎて投資効果が出ないということなのだろうか。
 とはいえ、何もこんなものは投資効果なんてものが発揮されなくても良いから安定的に電力が供給できて、しかも自然保全という観点で意味があればよいのではないのか。それを上場されている企業に独占的にゆだねているから問題解決が前向きに進まないのではないのだろうか。
 間違っているのかも知れないけれど、この辺がどうしても理解できないでいる。二酸化炭素を出さないかも知れないけれど、いざというときにはとんでもないことが起きる可能性を絶対的に否定することができないシステムに頼るのは大いに疑問だから、こんなことを考える。
 こんなことからエネルギーを持つ国、あるいは地域を巡って様々な思惑が錯綜しているのは否定ができないし、これから先はどんどんその可能性が高まっていく。最後には結局その既得権を巡る論争からいがみ合い、殺し合うところにまでいってしまうんだけれど、人間というのは本当に妬みと羨望の対象をわがものにしようとする傲慢な存在だということは変わらない。私もその一員だけれども人間の辞書には学習能力というものは存在しないらしい。

朋あり

 学生時代の友人からメールが来て、シャドウズバンドをやりたいからドラムを叩かないかという。曲がりなりにもドラムを叩いていたのはもう5年ほど前までのことで、今やスティックなんかその辺の植木鉢で草花の支えにでもなっていようというものである。
 いつだったか酔っぱらった勢いで大変に久しぶりにドラム・キットの前に座って、たたき始めたらすぐに手が動かないことに気づく。最低限必要な筋肉がもうすでになくなっていたのである。元々へたっくそで器用なドラムじゃないからにたいしたことはなかったけれど、以前はしばらくさわっていなくたって、ちょっとはどうにかなりそうだった。しかし、もう全く機能させるための筋肉がないんだからもういじるつもりもなくなった。こんなことになるものだったのかと気がついたけれど、もう遅い。

避暑

 女子マラソンの朝だなぁと思って枕元のラジオに手を伸ばすとラドクリフが走っている。あれ?疲労骨折っていっていたんじゃなかっただろうか。慌てて起き出してテレビをつけると日本テレビでしか中継をしていない。NHKがどこのチャンネルを探ってもやっていないのはどうしてなんだろう。民放がこの手の中継をやるとかならず途中で長々と宣伝が入ってその間に何かが起きてしまうので、好きじゃない。マーフィーの法則というか、箱根駅伝なんかでも宣伝が終わるやいなや「大変なことが起きています!」だったりする。
 北京もそんなに今朝は暑そうではないけれど、こっちは涼しいどころではなくて、北風びゅーびゅーで、半袖では寒くてしょうがない。あたかもどこかに避暑に行っているようで、とても東京の気候じゃない。この変化に身体がついていくのだろうか。
 土佐礼子は途中でリタイアしてしまったけれど、痛み止めを飲んで走り始めていたのだという。野口だけじゃなかったのだ。
 男子レスリングで銅メダルをマットに投げつけたアラ・アブラハミアンスウェーデン)はメダル剥奪だそうだけれど、よっぽど判定に怒ってていたんだろうなぁ、彼は。アテネでもいろいろあったらしい。レスリングの判定は柔道よりはましなんだろうと思ってみていたんだけれど、結構分けわからんところもあるんだなぁと思った。浜口京子の準決勝はフォール負けだから文句のつけようもないけれど。

日曜のテレビ

 NHKの「日曜討論」は珍しく建前をとうとうと語る政治屋の集まりではなくて、「相次ぐ通り魔事件 いま何が必要か」というテーマでノンフィクション作家・吉岡忍、日本教育大学院大学教授・河上亮一(開成ー東大、プロ教師の会)、経済同友会幹事で人材教育・派遣会社「ザ・アール」社長・奥谷禮子、ジャーナリスト・斎藤貴男精神科医斎藤環、小説家・平野啓一郎東筑高ー京大、芥川賞 33歳)というメンバーだったから大変に興味深かった。なによりもこうしたメンバーをそろえられることがNHKの力なんだろうけれど、これでたった一時間というのがもったいなかったなぁと思う。
 斎藤貴男NHKに出演したのはあんまり記憶にない。奥谷がこのメンバーを前にしても相変わらずの話なのは当然なのかも知れないが、周囲とのコミュニケートをうまくとれない世代に対する対応を頭の中に持ち得ない硬直した思考を再確認させられただけだったのは面白くなかった。斎藤貴男が言うようにここに御手洗がいたらもっともっと面白かっただろうと想像できる。
 平野が言うように勝ち組だとか負け組だとか枠にはめるいい方でせっつくのはいい加減にやめてくれというのはよくわかる。
 学校というものはとりあえず、社会的適応性を身につけるために必要な知識と協調性を身につけるところで、個性云々を語るのはそれから先のことだ、という河上の説明は理解できるのだけれど、その時点でどのような価値観を自ら捉えることができるのかというこの曖昧な、そして雲を掴むようなポイントがどう語って良いのかわからない部分なんだと思う。
 奥谷が振り回す「絶対的価値観」という言葉はすぐさま誰かが否定しなきゃならない。絶対的な価値観とは一体なんだよ。人間として最低限してはならない、犯してはならない部分ということなんだろうか。それはあるかもしれないけれど、それは非常に限定された部分であって、そこから先は相対的な価値観であるものが大部分だろう。
 他者の暮らし方を羨む、妬む、嫉妬するという部分はどこから出てくるのだろうか。「こんなことをしている奴もいるんだぞ」というあたかも“どうだぁ、俺は勝っているぞ”的な取り上げ方をして、なんの考えもなしに賛美する、というマスコミのスタンスはあまりにも興味本位で次元が低すぎる。
 撃たれ弱い思考がどうして作用してしまうのかという点についても考えを巡らす必要があるなぁと思う。もう、だめだ、という結論に至る過程があまりにも簡単なようでもあるし、先読みがあまりにも悲劇的でもあるし、想像する壁があまりにも高いような気がする。
 それなら、それはどこから出てくるのか、何が作用してきたのかと考えるとまた元に戻っていってしまうような気もする。どこかで正面を向いて考えなくてはならない。

複雑に絡まっちゃってて

 資本主義経済の社会では利益追求法人が市場から利益を上げることによってその利益を出資者に還元し、出資者はそこで得た利益を出資金として再投資することによって成立する。
 これが限定されたある一定の市場で回転していると物事は単純明快にしてわかりやすいのだけれど、これが今や出資者はもちろん国境を越えて遙か彼方から出資金に対応する利益の還元を受ける。国境を越えてくるのは投資だけではなくて、労働力もより絶対的に高賃金の得られるところに国境を越えて動いていく、搾取されることは分かり切っていても。これが全くオープンに実施されると地球規模の市場となっていくのだけれど、ところがそうはいっていない。
 ほとんどの地域では出資者による出資はもう全くの話オープンになっている。誰がどこに拠点を持っていてどこの市場に対して投資をしようと千客万来で、ウェルカムだ。だから儲かってその利益を分配するときにあたかもその市場には潤沢に資金がやってきたように見えるけれど、いざとなったらそれは引き揚げられちゃってガクンと体力が疲弊するということになる。見捨てられちゃうという奴だ。それはいやだからこの投資市場の経済活動はとてもやりやすいンだと宣伝しなくちゃならない。つまり、利益追求法人が利益を上げやすくしてやらなくてはならない。法人税が安かったり、労働者を安く調達しやすいというのは魅力的に映る。
 ほとんどの地域では労働者の国境を越えての移動は野放図ではない。季節労働者は大歓迎されるけれど移り住んでくるのは大ブーイングだ。搾取されに来るのは大歓迎なんだけれど(そりゃそうだ)、仲間のひとりになるのはおおむねいやがられる。なぜなら仲間のひとりになると平等になにもかも参加できなくては民主的ではないから、手間もかかるし、それは即金がかかるということに結びつくからだ。
 つまり、地域が経済的に発展するということは、そこに存在する利益追求法人が儲かり、人を雇い、税金をわずかながら納め、金が集まり人が集まるのだけれど、手間暇がかからないということにつながるのではないのかというのが、ぼ〜っと考えていた結論だ。
 で、問題はこの「手間暇がかからない」ということだ。簡単にいってしまうと手離れがよいということか。面倒なことになったら簡単に手が切れるということだ。これは多くの人間を動かさないとものを生み出さない利益追求プロセスとしては魅力的だ。
 今朝のテレビで韓国のサムスンの問題を取り上げていたけれど、あそこのグループでは一部を除いて労働組合がないというのだ。ま、労働組合が存在していてもその活動が非常に丁重である場合でもあんまり変わりはないといって良いだろう。なにしろサムスン中央日報すら手中に収めているというのだからまぁ万全だ。
 「労働形態が多くの選択肢を持っていることがこれからの社会では重要だ」という経団連の主張は全くないとはいわないが、おまえらが云うからこそおかしいのだ。労働者側が「多種な事情を抱えている労働者をその事情にあわせて働くことのできる形態を受け入れて欲しい」というのであればうなずけるような気がするが、経団連がそういえば、これは当然「美味しいタイプの労働者をなくすな!」といっていることは明確だ。戦後米国が東西冷戦の中で自らを支援する政策をとらせるために何人ものA級戦犯を釈放したのと同じようにこうして政治は「誰かの利益」のために動く。
 「この国の経済が発展しなくてはこの国は何もかもなくす」という脅しはそのまま「君たちが辞めてくれなくてはこの企業そのものがなくなってしまう」という説得と紙一重であり、「君が国家に命を捧げてくれなくてはこの国が滅んでしまう」という脅しと瓜二つだ。
 ひょっとすると核燃料再処理施設を動かして原子力発電を推進して行かなくてはこの国のエネルギー政策は成り立たないという論理もこれか。

Holy Coleは

Nancy Wilsonに似たものを感じる。

With My Lover Beside Me

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Blame It on My Youth

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