ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

昔のiPod

 多分2004年の3月に買ったiPodのバッテリーが極端に保たなくなっていたのでもう諦めようかと思っていたのだけれど、6800円払うと新替できるという話があったので、アップル・ストアに持って行った。ジーニアス・バーの予約を取らなくてはならないのが面倒。混んでいるらしくてそんな話を現場で聞いてからすぐ予約を入れようとしたら二日後でないと取れなかった。その日が今日。雨のせいなのか、がらがらだった。私の隣に来たおじさんはiPod touchをお持ちになってなにやら大きな声でお話になっておられた。
 なにしろ私の物はごく初期(第二世代)のものなので機能は大変にシンプルなので、ここで使い方を教えて貰わないとわからないということはないし、40GBあるので今売っているiPod nanoに比べても2倍以上の容量がある。結局話を聞くとバッテリーを交換するわけではなくて、本体ごと交換するということなんだそうで、これ、ちゃんとリサイクルできるのだろうか。しかも、この店に交換できる機器があるわけではないので、取り寄せまでに一週間ほどかかるかもしれないし、また自分で金をかけてこの店までこなくてはならない。ぼんぼん新しい物を入手することに抵抗もない今の若人と違ってこの金額であの単一機能でも良いから使えれば私は良い物だから、まぁしょうがないかと。
 私の第二世代を取り出したら、お店の若者が思わず「ほぉ〜」と声を出した。たった5年前の製品があたかもアンティークのような扱いを受けるのがこの業界なのか、この国だからなのか。
 それにしても季節が来るごとにモデルを変える必要が一体どこにあるのだろうか。豪州のシャワーヘッドの話を思い出した。いつまで経っても売っている製品の基本構造が殆ど変わらない。

事業仕分け くたばれ!インクリメンタリズム!

 面白いことになっている。これはもう革命だな。ちょっとずつNHKのニュースは議論を映し出していたけれど、それがひとつひとつなるほどという議論になっていたのは大変に興味深かった。まるでNHKの(NHKばかり引っ張り出して申し訳ないけれど)「クローズアップ現代」を拡大版にして双方の意見を採り上げているかのような気になってくる。こんな面白いことができるのだというところまで期待していなかったというか、浅い議論で終わってしまうのではないかと危惧していたけれど、そんなものはどこかにぶっ飛んでしまった。
 国立女性教育会館の方が「こっちのいうことをまず聴け!」というのがテレビで大写しになっていた。なにしろ時間はかけられないのだから、どんどん核心に入って行かなきゃならない。前にも書いたけれど、仕分けチームが仰るようにあれも民間がやってどうしていけないのかという疑問は持たれるだろう。しかし、懐の潤沢でないグループが研修会、勉強会なんてことを計画する時にはあの種の施設は大変に有効なんだという利用者からの意見が反映されていたのか、という点が疑問になる。それは自治体が持っている施設を有効に使えばできるとはいえ、泊まり込みでできるところはそうそうはない。一部のその施設を知っている人たちだけが利用しているんだとしたら、問題にはなるだろう。そうだとしたらその施設の利用案内をよりよくやりなさいということになって、かえって予算が付いても良いのかもしれない。こうした場所を使いたいというニーズは立派にある。例えば同じ活動をするNPOが横のつながりを求め、情報交換をするための場を探す、なんて場合にはあの種の施設は大変に有効だというのは想像がつく。
 このニーズについては既に以前に書いている。これらの施設で必要なのは広く多くの人にその存在を知って貰うということでもある。
 弁護士のいない裁判のようだという声があったらしい。冗談じゃない。そんなことをいったらこっちに予算をつけてあっちに予算をつけないという決定はみんな裁判なのか、ということになるじゃないか。行政は裁判じゃない。
 亀井のおっさんはどう考えても旧態依然。外国人が入っているのはおかしいじゃないか、かつての経済諮問会議にいた奴がいるのはおかしいじゃないか(これは私もどうかと思うけれど)、とやっぱり彼は自民党の生き残りに過ぎなくて、族議員以外の何者でもない。社民党国民新党事業仕分けの中に入っていないと今いっているんだけれど、小沢一郎が一年生議員を外せといっていた時にいうべき話じゃないのか?ずっと黙っていたじゃないか。やっぱり奴は民主党政権のアキレス腱だ。
 早く外務省の番にならないかなぁ。

小沢一郎の宗教観

 昨日小沢一郎高野山に行ったという話はテレビのニュースでちょろっと見たので知っていた。どうも和歌山の民主党の選挙戦がうまくなかったからその為にいったんだという報道も見る。

 彼は

「選挙運動に来たわけではない」としたうえで「高野山は日本人の原点。キリスト教を背景とした西洋文明は行き詰まっている。仏教は人間の生き様を原点から教えてくれる」と仏教をたたえた。(asahi.com 2009年11月11日)

 と報じられている。

 こちらの記事は後半に、もう一歩踏み込んだ彼の発言を報じている。

 小沢氏は会談後、記者団に、会談でのやりとりについて、「キリスト教イスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ。その点、仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい宗教だ」などと述べたことを明らかにした。
 さらに、小沢氏は記者団に、「キリスト教文明は非常に排他的で、独善的な宗教だと私は思っている」とも語った。
 小沢氏の発言は、仏教を称賛することで、政治的には「中立」ながら自民党と古くからつながりのある全日本仏教会民主党との関係強化を求める狙いがあったものと見られる。
(2009年11月10日23時33分 読売新聞)

 全日本仏教会というのは「日本の伝統仏教界では唯一の連合体で、102の加盟宗派・団体に属する寺院は日本全体の寺院の9割を超える。8月の総選挙では自民党支援が目立ち、推薦候補は民主党49人、自民党67人だった」とasahi.com(2009年11月11日9時31分)が報じている。
 
 共同電はもうひとつ報じている。

 イスラム教については「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」と述べた。
(2009/11/10 20:56 【共同通信】)

 日本人は宗教をうまく語ることができない、ということの代表のような発言だ。とかく日本人は宗教を意識して暮らしていないからこういう発言がぽろっと出てきてしまう。宗教儀礼に多く立ち会っているから宗教観があるのかといったら、それは単なる社交的儀礼として出席しているだけで、そこに帰依しているから出席しているわけではないというのが殆どの日本人の生活だろう。
 いつでも引き合いに出されることだけれども、子どもが育てばお宮参りに連れて行き、七五三で祈祷をして貰い、キリスト教的な環境で結婚式を挙げ、「誓いますか?」と聞かれれば「誓います」と誰にいっているのかわからずに誓い、葬式はお寺さんを呼んできてお経を上げて貰う。ところであのお経はなんといってくれているだって?うちは南無妙法蓮華経だっけ?南無阿弥陀仏だっけ?クリスマスだ、ヴァレンタインだ、ハロウィーンだ。こうやってみてくるとやっぱり日本はアメニズムだったのが一番自然な状況だったんじゃないのかと思う。元々仏教そのものだって日本古来の宗教ではなくて移入してきたものだ。だからなんでも受け入れてきたんだろう。
 そこに唐突にキリスト教イスラムも排他的だからこんな状況になってしまったんだと言い放つのは、そもそも仏教の教えにも反しているんだということを彼は気がつくべきだろう。ここまでいったということはユダヤ教も排他的だと彼は判断する訳なんだろう。
 そうすると大統領の就任式でバイブルに手を置いて神に誓うと歴代の大統領がやってきた米国なんかの考えはその「排他性」に基づく最たる物であるし、多くの欧州各国はすべて排他的な考えに基づいているのだということになるだろうし、アラブの各国もすべて排他的だと彼は理解するということを宣言した。
 さて、そうすると外国からの移民をすべてシャット・アウトして姑息な労働者としてのみ認めるべく、裏口だけを開けているわが国の「排他的」対外政策は仏教的考えに反しているということになるわけで、その逆に、今確かに様々な問題を抱える結果となっている欧州各国の移民政策はどう考えたらよいのだろうかということにもなりかねない。

 政権与党の幹事長という立場にある人としては目の前にある「全日本仏教会」という大きな票田に眼が眩んだということではないのか。こうしたお調子者はどんな時でもいる。お客を喜ばせるために商売敵の悪口を言ったらあっちの経営者は元はといえばそのお客の親戚だったみたいな話だ。

 神道を日本古来の宗教なのだとしている人たちの中に排他的なエスノセントリズム主張を繰り返す人たちが重なるのをどの様に見たらよいのだろうか。今度小沢一郎に教えて貰いたい。

 多分彼に対して新聞記者がこういう反応があるけれど、という質問をしたら、多分「わたしゃそんな意味でいったんではない」と言下に否定して終わろうとするだろう。そりゃ通りませんぜ。

 イスラム教徒が日本にどれほどいるのか知らないけれど、キリスト教徒なんてものは全人口の1%にしか過ぎないんだからまぁいいかと思っておいでなのかもしれん。

 そろそろ与党だという意識に未だ到達していないという言い訳が効かなくなる時が来る。

森繁久弥

 晩年はとうとう本当にスケベ爺と成り下がっていた森繁だけれど、彼が良かったのはやっぱり東宝の三等重役、社長三代記から始まって、社長漫遊記シリーズで久慈あさみ淡路恵子淡島千景なんてところと競演していた頃だったろうと思うけれど、あの辺りを思い出すとどうしてもポマードの匂いが鼻に匂ってくるんだなぁ。柳屋のポマードもあの頃がピークだったんだろうか。
 みんな周りは森繁がスケベ丸出しだったのを知っているのに、今となっては放送で「お茶目」だなんて表現するのはそりゃずるい。この「おちゃめ」という言葉は大変に多くの意味を持つ放送業界特有の言葉になりつつある。元族出身のタレントの過去に触れると「若い頃はお茶目な奴で・・」だなんて表現しやがって、ずるいんじゃねぇのか。
 どうしても森繁というと三木のり平、伴淳、フランキー堺小林桂樹山茶花究加東大介なんてところが必ず一緒だ。私はこの中では森繁と加東大介はあまり好きじゃなかったなぁ。一にフランキー、次が三木のり平、そして小林桂樹だろうか。なんたってフランキーのハワイの日系二世役なんて秀逸だ。三木のり平といえばこれまたなんたって八波むとしと競演した「雲の上団五郎一座」だし、小林桂樹は「裸の大将」で一皮むけた。山茶花究の悪役なんて本当に意地の悪そうな蝶ネクタイだった。申し訳ないけれど、森繁は私にとっては偉そうで意地の悪そうな役者だった。役者も「先生」と呼ばれるようになっちゃおしまいだ。

元凶

 平野博文官房長官は10日の衆院議院運営委員会理事会で、国家公務員の天下りをあっせんする「府省庁」について、閣僚、副大臣など政務三役や官僚OBは該当しないとの見解を表明した。独立行政法人に再就職した官僚OBが後輩に再就職をあっせんする事例は天下りに該当しないことになり、自民党は「ご都合主義的な見解だ」と反発を強めている。(毎日新聞 2009年11月11日 東京朝刊)

 バカなことをいうな。官僚のトップが巡り巡ってやってくるところはどうでも良いといっているとしか思えない。なんでそこだけを例外扱いするのか。
 この内閣が始まった時に平野が記者クラブの規制を振り回した時からどうもおかしな具合だなぁと思っていたけれど、この天下りをいい加減でずるずるにしてしまおうという動きは、そもそも亀井静香日本郵政人事から始まっている。70代を取りそろえた会社人事なんて本当に日本郵政を全国レベルで満足なサービスを提供するために組み直そうとしている動きとは受け止めかねる。大体の話が曾野綾子なんかをそんなポジションに持ってきて、昔の話で出ています役員会をやっている場合じゃない。
 それでなくても会計的に非常に問題を抱えている総理大臣だというだけでかなり苦しいところにいるにもかかわらず亀井静香、そして居直りを決め込もうとする平野博文の存在はこの内閣のアキレス腱であり、下手をすると短命に終わりかねない。
 下がっても60%台の支持率を確保している間にこの辺をきちんと始末しておかないと民意が離れるぞ。

市橋

 これでまた全部のチャンネルが朝から晩まで彼の話で埋め尽くされるのかと思うともうゾッとする。本当になんの芸もなく、あっちもこっちもテレビはこういう話が大好きで、昨夜なんぞは新幹線の中でまで撮影をしながらマスコミが乗っていた。四六時中取り上げ続けるのはいい加減によさんか、といいたい。