昨日小沢一郎が高野山に行ったという話はテレビのニュースでちょろっと見たので知っていた。どうも和歌山の民主党の選挙戦がうまくなかったからその為にいったんだという報道も見る。
彼は
「選挙運動に来たわけではない」としたうえで「高野山は日本人の原点。キリスト教を背景とした西洋文明は行き詰まっている。仏教は人間の生き様を原点から教えてくれる」と仏教をたたえた。(asahi.com 2009年11月11日)
と報じられている。
こちらの記事は後半に、もう一歩踏み込んだ彼の発言を報じている。
小沢氏は会談後、記者団に、会談でのやりとりについて、「キリスト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ。その点、仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい宗教だ」などと述べたことを明らかにした。
さらに、小沢氏は記者団に、「キリスト教文明は非常に排他的で、独善的な宗教だと私は思っている」とも語った。
小沢氏の発言は、仏教を称賛することで、政治的には「中立」ながら自民党と古くからつながりのある全日本仏教会に民主党との関係強化を求める狙いがあったものと見られる。
(2009年11月10日23時33分 読売新聞)
全日本仏教会というのは「日本の伝統仏教界では唯一の連合体で、102の加盟宗派・団体に属する寺院は日本全体の寺院の9割を超える。8月の総選挙では自民党支援が目立ち、推薦候補は民主党49人、自民党67人だった」とasahi.com(2009年11月11日9時31分)が報じている。
共同電はもうひとつ報じている。
イスラム教については「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」と述べた。
(2009/11/10 20:56 【共同通信】)
日本人は宗教をうまく語ることができない、ということの代表のような発言だ。とかく日本人は宗教を意識して暮らしていないからこういう発言がぽろっと出てきてしまう。宗教儀礼に多く立ち会っているから宗教観があるのかといったら、それは単なる社交的儀礼として出席しているだけで、そこに帰依しているから出席しているわけではないというのが殆どの日本人の生活だろう。
いつでも引き合いに出されることだけれども、子どもが育てばお宮参りに連れて行き、七五三で祈祷をして貰い、キリスト教的な環境で結婚式を挙げ、「誓いますか?」と聞かれれば「誓います」と誰にいっているのかわからずに誓い、葬式はお寺さんを呼んできてお経を上げて貰う。ところであのお経はなんといってくれているだって?うちは南無妙法蓮華経だっけ?南無阿弥陀仏だっけ?クリスマスだ、ヴァレンタインだ、ハロウィーンだ。こうやってみてくるとやっぱり日本はアメニズムだったのが一番自然な状況だったんじゃないのかと思う。元々仏教そのものだって日本古来の宗教ではなくて移入してきたものだ。だからなんでも受け入れてきたんだろう。
そこに唐突にキリスト教もイスラムも排他的だからこんな状況になってしまったんだと言い放つのは、そもそも仏教の教えにも反しているんだということを彼は気がつくべきだろう。ここまでいったということはユダヤ教も排他的だと彼は判断する訳なんだろう。
そうすると大統領の就任式でバイブルに手を置いて神に誓うと歴代の大統領がやってきた米国なんかの考えはその「排他性」に基づく最たる物であるし、多くの欧州各国はすべて排他的な考えに基づいているのだということになるだろうし、アラブの各国もすべて排他的だと彼は理解するということを宣言した。
さて、そうすると外国からの移民をすべてシャット・アウトして姑息な労働者としてのみ認めるべく、裏口だけを開けているわが国の「排他的」対外政策は仏教的考えに反しているということになるわけで、その逆に、今確かに様々な問題を抱える結果となっている欧州各国の移民政策はどう考えたらよいのだろうかということにもなりかねない。
政権与党の幹事長という立場にある人としては目の前にある「全日本仏教会」という大きな票田に眼が眩んだということではないのか。こうしたお調子者はどんな時でもいる。お客を喜ばせるために商売敵の悪口を言ったらあっちの経営者は元はといえばそのお客の親戚だったみたいな話だ。
神道を日本古来の宗教なのだとしている人たちの中に排他的なエスノセントリズム主張を繰り返す人たちが重なるのをどの様に見たらよいのだろうか。今度小沢一郎に教えて貰いたい。
多分彼に対して新聞記者がこういう反応があるけれど、という質問をしたら、多分「わたしゃそんな意味でいったんではない」と言下に否定して終わろうとするだろう。そりゃ通りませんぜ。
イスラム教徒が日本にどれほどいるのか知らないけれど、キリスト教徒なんてものは全人口の1%にしか過ぎないんだからまぁいいかと思っておいでなのかもしれん。
そろそろ与党だという意識に未だ到達していないという言い訳が効かなくなる時が来る。