ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

散歩

 今週はいつものスケジュールがなくなっていて、歩くチャンスが少ない。昨日はまたまた一歩も家を出なかった。だから、二人で近所に蕎麦を食いにいったついでに銀座まで出た。そうでもしないと歩かないままになってしまう。
 教文館に寄って二週間分の週刊金曜日を入手した。上に上がると二階の突き当たりが猫フェアになっている。猫系の本がごろごろと置いてあって、こんなにあるのかとびっくりする。世の中のほとんどは猫好きでしめられているんだと誤解しそうだけれど、われわれ猫族にはこれは嬉しい。今月一杯やっているらしい。教文館の二階は本の配置が大きく変わっている。

敗戦と戦後のあいだで: 遅れて帰りし者たち (筑摩選書)

敗戦と戦後のあいだで: 遅れて帰りし者たち (筑摩選書)

 1960年生まれの著者。ICUからシカゴ大。PhD。現在バンダーヴィルト大と紹介されている。前著「敗戦の記憶」は保阪正康が紹介していたことがあったような記憶があるが、かなり記憶が怪しい状態にある。
 このくらいの盛大の人がこうして「歴史」の一部として書いているのを見ていると、われわれは同時代に生きてきたものとして、書き留めていかなくてはならないのかと今更ながら認識を新たにすることになりそうだ。われわれが小学生の頃はもう既に占領は解除されていたけれど、われわれは彼が「歴史」とする部分も共通して持っていたわけだからだ。
敗戦の記憶―身体・文化・物語 1945~1970

敗戦の記憶―身体・文化・物語 1945~1970

 伊東屋にいこうとアップルの前を通ると、それはそれはたくさんの人が群がっている。今日はiPad Miniの発売日だからだろう。みんながいじっているのを見ていると(とても手にするような隙はない)小さくて、薄くて軽そうなのは良いが、iPadを使い慣れている人にとっては小さいなぁという感じだろうか。
 伊東屋の裏の別館はこの前一回に用事があっただけだったけれど、今日は5階に用があって上がった。こっちは空いていて、気が楽だ。筆の棚をためつすがめつしているところに知り合い社員が通りかかる。しばらく喋って再来週の落語会を約して分かれる。本館に戻ってノート売り場で買いたくなるのを心に向かって、「あれもある、これもある」と説得する。京橋の交差点でいつものおじさんから「ビッグイシュー」を入手。
6,600歩。

マインド・コントロール

 オセロの中島が仕事を放り出して全財産を捧げてしまった事件を持ち出すまでもなく、こんどの尼崎の事件を見ても、その小さな社会の中で何が一番重要なのかという価値観が偏って作り出される危険性というのはどこにでも転がっている。小学校や中学校でのいじめグループの存在だって既にそのひとつであるし、より暴力的になるとあの赤軍事件だってそのひとつだ。その渦中にいる人間にとってはその小さな狭いグループの中では思いもよらない価値観が大手を振って横行する。
 マルチ商法にしたって、そんなことで広く万民が公平にその恩恵に浴するのかといったら決してあり得ないのに、そんな幻想に振り回される。
 実は企業現場にもあそこにもこっちにもそんな小さなグループ内の価値観があり得るし、現にそれが当たり前になっている。一般社会的にいっておかしいということがもうおかしくなくなる。東京高検の東電OL殺人事件での行動・主張だって、村木さんえん罪事件の大阪地検特捜部の行動だって、みんな「何が正しいのか」という観点でおかしくなってしまっている。
 駅みたいな、人でごった返しているようなところで、立ち止まって二人が交互にお辞儀をしているのだって、この二人にとってはこの二人の関係が何よりもすべてに優先しているのであって、そこでは既に「この人はこのままじゃぁねといってすれ違ってしまってはならない」という二人の関係でしか成立しない価値観がその周囲を急ぐ人たちを全員巻き込んでもかまわないという判断をさせる、ということである。
 現役時代、そんなおかしい価値観に振り回されている職場にはいくつも出あった。架空出張で交際費を捻出するどこかの警察みたいな部長、昼飯時にワインを飲み干すアル中上司、「自分で判断しろ」といって責任をとらない鵜匠上司、失敗は部下・成功は自分の上司・・・・。その下に唯々諾々といた自分のような部下もものの見事にマインド・コントロールされていたんだといってもおかしくないね。尤も、そのコントロール過半数が陥っていたらどうにもならないんだね。それに迎合するのが最もいやすい処世術ってことだろうなぁ。

別人が犯人の可能性

 東電OL殺人事件の再審公判はゴビンダ・プラサド・マイナリさんを無罪と検察が論告したことで即日結審した。彼は15年間拘束されてきた。
 青沼隆之・東京高検次席検事のコメントを聞いて呆れ返ったとするコメントが巷に溢れている。
 「検察官が殊更に証拠を隠したなどの事実も認められず、その捜査・公判活動に特段の問題はなかった」「結果としてマイナリ氏を犯人として長期間身柄拘束したことについては、誠に申し訳なく思っている」というものだ。
 大いに問題があるのにも拘わらず、「特段の問題はなかった」といけしゃあしゃあと平然と言ってのける青沼次席検事の倫理観はどうなっているのだろうか。特段の問題がなくても無罪の人間を15年間もの長期にわたり拘束することになるのだとしたら、この国の司法とはそれほどいい加減なものであるということになるのか。
 中身を今になって聞くと確かにいい加減な捜査であり、裁判に際してはマイナリさんを犯人としがたい証拠がありながらそれを提出せずに来たという経緯を見ると「問題がない」といえるケースではない。東京高検がこの姿勢を続けるというのであれば青沼次席検事は検察官としての資格を剥奪されても致し方がないだろう。
 デモの時の警察による公務執行妨害ねつ造事件の日常化を見ても警察・検察の脅迫司法のあり方は根本的に問題にされなくてはならないはずだ。この事件を分析した佐野眞一を評価するべきでもある。

2012年11月01日のツイート