ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

宮崎駿監督会見要旨

宮崎駿アカデミー賞名誉賞を受賞した時に開いた記者会見での発言から。

いろいろあってもアニメーションの仕事を続けてこれたのは、日本が70年近く戦争をしなかったことがものすごく大きい。特にこのごろ、ヒタヒタと感じます。
 もちろん朝鮮戦争の特需でもうけて経済を再建したが、戦争をしなかったのは、日本の女たちが戦争をしたくないという気持ちを持って強く生きていたからだ。原爆の体験を子供たちまで伝えてきた。(1954年に)ゴジラ映画が出てきた時に、怪獣モノを見に行く気楽さはなかった。水爆実験の結果、ゴジラがやってくるという、ただ事ではないインパクトを感じていた。戦争と原爆がつながる記憶をもっていたから、戦争をしてはいけないという思いがあり、それが国の中心に定まっていたと思う。70年すぎるとだいぶ怪しくなってきた。やっぱり自分が50年この仕事を続けてこられたのは、いろいろあっても日本が経済的に安定していた。安定していたのは、戦争しなかったからだと思う。

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 この発言で思い出した。そう、ゴジラが映画になった頃、様々な怪獣が映画になった。今残っているのはそうした作品のフィルムだから、それは映像として今でも見ることはできる。しかし、当時、私たちも、これは第三次世界大戦というものは早晩起きるだろうという悲壮感を持っていたことは事実だろう。私はまだが気だったけれど、だからこそというべきか、多分逃れることはできない可能性が高いと思っていた。それくらい、世の中は怪しかった。今ほど情報がたくさんもたらされるチャンスが少なかったというのに、である。その皮膚感というものは多分伝えられないことだろう。私たちが昭和の初めの状況をどんなに聴いても実感としてとらえられないことと同じかもしれない。だから、それを謀ってやろうとする輩にとってはやりやすいということになる。それだけ騙されやすいということでもある。ちょっと油断したら簡単にやられる。

昨日今日

 プロフィールにも書いているように私は1947年生まれで、今年67歳になった。金曜日に同期の友人がいうには、私たちは既に榎本健一の人生を超えたんだそうだ。エノケンは66歳で亡くなったんだというのだ。え〜っ!思いっきり驚いた。エノケンはかなりの歳になっていたという記憶なのだ。ということは私たちもかなりの歳なのかもしれない。
 なにしろ高校を卒業してからもうそろそろ半世紀なのだ。先日、東海道新幹線ができてから半世紀と聞いて、驚いた。もうそんなになるのかと。
 あの頃といったら、日劇ウェスタンカーニバルがあって「映画と実演」と書いてあった。オリンピック前はオリンピックのための工事、工事でもうそこら中が埃だらけだった。ワンワンしていた。それでも私が冬になって学生服の上から来ていた外套は紺色の学校指定のようなぺらぺらだったし、その前は親父の古くなった上着をひっくり返して作り直したものだった。これが一言では今の人に通じない。
 上着の表側は着古して日に焼けていても、これをひっくり返してみると、裏地がついていたんだから、焼けていないのだ。それを表にして作り直してくれるということを商売にしている人が居て、そうして再利用する。今から考えてみたら非常に理にかなっていて、資源の有効利用そのものだ。ところがひとつ問題がある。普通上着は左の胸にポケットがある。これがひっくり返しちゃうと右に来ちゃうのだ。しかし、ちょっと見、誰も気がつかない。よく考えると、ばれる。
 しかし、すぐに高度成長期に入ったら、そんなことをするよりも、買い換えた方が安い、って事になる。安くて丈夫なものがどんどん出てくる。テレビでも「あれを買え、これを買え!」と日がな一日うるさく囃し立てる。家電三種の神器とか、カー・ライフの時代とかいって煽り立てた。それで物流のマーケットがどんどん大きくなった。
 押し売りなんて、オリンピック以降見なくなった。白衣を着て戦闘帽を被って、下駄に松葉杖でアコーディオンを弾いている傷痍軍人なんて見なくなった。オリンピックが日本を変えたのだ。ま、正確に言うとそうじゃないけれど。
 所得を倍増してくれることになったし、一攫千金を手にすることが夢でなくなった。先輩の話を聞いたら、家を買い換えるごとに大きくなったといっていた。私もそんなことになるんだと思っていた。バカだったなぁ。
 数寄屋橋の近辺にあった堀も、暗渠になったおかげで、どぶ川を見なくて済むようになった。その分銀座がお洒落になった。あのどぶがあのまんまだったらどうなっていただろう。煙草の吸い殻は指先でぽぉ〜ンとはじき飛ばすのが当たり前だった。煙草の封を切ったらセロハンはその辺に飛ばせば良かった。なんでも、水に放り出した。神田川もどぶだった。
 人の心は周りが誤魔化しようがなくなると、つまり、自分が捨てたんじゃない!と言い張っていればごまかせる状態じゃなくなると、結構臆病で自ら汚すことがなくなる。つまり、そういう状況にならなければ、人間は怠惰そのものだって事だ。
 今の中国を見ていて、日本人はひでぇ状態だと鼻先で笑う。しかし、ついこの前まで日本人だって平気でいた。四日市や、川崎の空気汚染だって知らん顔をしていた。今あの頃の映像を見たらぞっとする。水俣病にしたって、平気で知らん顔をしていた。自分には関わり合いがないこったと思っていた。自分が良い状態でいられればそれで良いと思っていた。
 今の若い人たちは気がついた時に日本は落ち着いた状態にあるから、想像がつかない。日本人だって、昔は心がすさんでいた。差別行動や外国人排除を平気で今でも邁進している人たちはあの頃の日本人のすさんだ価値観、人生観をそのまま持ち続けているというだけで、いっかな学習してきていない。置いてきぼりを食った人たちなのだよ。しかも、哀れなことに自らはそれに気がついていない。ついこの前まで、女性は家庭をしっかり守りなさい、それが日本の伝統なのだと周りの状況の変化に気がつくこともできずにいっていた婆さん、爺さんたちは今の日本がどこに問題があるのかを認識することができずにいる。つまり、かつての日本を知らない人たちの逆さまで、今の日本を見つめることができないのだ。その連中が政治に深く関わっている状態が、この国にとっての不幸の始まりなのだ。
 温故知新というのは逆もまた真なのだ。

 こんな話ばかりで恐縮なのですが、今朝方の夢もまた、私としては記録しておきたい。それはなぜなのか知らないのですが、年寄りのボクシングというテーマです(なに、それ)。どうしてもグローブ(野球では最近グラブと呼ぶから、これはボクシング用語でしょうか)を嵌めて、やらなきゃいけないんだけれど、相手の人がレベルが高すぎるので、試合は危険だから、スパーリングになるのです。しかし、スパーリングだって、危険じゃないの?ジャブを一生懸命出すんだけれど、それがなかなか動かないのね。多分その瞬間私は布団の中で腕を動かしているんじゃないですかねぇ。辛いんだよ、ボクシングなんて。
 なんでこんな夢?

無責任

麻生太郎財務相「この2年で株価は1万7千円まで上がった。円安にも振れた」と景気回復の実績を強調する中で、「その結果として企業は大量の利益を出している。出していないのは、よほど運が悪いか、経営者に能力がないかだ」
帝国データバンクによると、円安の影響による企業倒産は11月まで3カ月連続で過去最多を更新した。(朝日新聞2014年12月6日19時41分)

 だめだ、こりゃ。世の中の仕組みを無視しているのか、なんも知らないのか。いい気なもんだ。

落語

 もうすでに何度も何度も書いたような気がするけれど、私にとっての落語というのは日常娯楽だった。それはラジオ。昔はテレビがなかったので、家での娯楽だといったらラジオだけだった。その代わりラジオからあらゆるエンターテインメントがこぼれだしていた。歌謡曲も、浪曲も、相撲も、野球も、お笑い三人組も、ヤン坊ニン坊トン坊も、そして落語もそこから出てきた。で、最初に聴いたのは三遊亭金馬だったのではないか。あとから読んだ本によるとあの人は当時東宝の所属だったそうで、寄席よりもラジオ、東宝名人会だったそうだ。
 生で落語を聞いた、つまり寄席に行ったのは小学校の3-4年の頃のことだったと思う。親父の甥に当たる青年が大阪からやってきて、うちに逗留し、横浜駅の西口に昨日今日できたような相鉄寄席という寄席に行った。そこで聴いたのが林家三平だった。当時はそろそろ昭和の爆笑王が大爆発する頃だったのではないだろうか。彼がやったのか、他の噺家がかけたのか、良く記憶がないのは小学生だったのだから無理もないが、「唐茄子屋政談」を聴いたらしい。「えぇ〜、とうなすやでござぁ〜い」という声を覚えている。
 中学中頃になって、うちにテープレコーダーがやってきた。姉が英語の勉強に使うと親を説得して買わせたらしい。これは得たり!もっぱら私が金馬の落語をラジオから録音するのに使っていた。こうなると、やっぱり人前でこねくり回してみたくなる。しかし、そんなことはなかなか実現しない。高校に入ってから、毎年秋になると、港区にある某大学の大学祭が開かれて、その大学の落語研究会が3-4日毎日朝から落語をやる。1-2日通ったような気がする。なんといっても只だ。ロハ。無料。電車代だけで、好きなだけ落語を聞いていられる。スポンジが水を吸う様にということをいうけれど、身じろぎもせず、ひとつも笑うということをしないで、じっと聞き入っていた。そりゃ大学生の落語なんだから、引き込まれて聞き入ってんじゃない。噺を覚えたくて聞き逃すまいとして聴いている。いってみれば稽古をつけて貰っているようなものだ。
 高校三年になってから、一年下の男子で小柳君というのが、どう知ったのかわからないが、ある日教室へやってきた。なんだと思ったら、どこで聴いてきたのか、私が落語が好きだと知ってきたという。「落語研究会を作りませんか?」というのだ。もし立ち上げることができたら顧問になってくれそうな先生も、もう当たりをつけてあるというのだ。国語の先生で、そういわれてみれば、あの先生は落語を好きそうな気がする。
 三年生は私ひとりで、あとは一年、二年の男子ばかりか、女子まで入ってくるというのだ。もちろん二の句もなく引き受けた。受験を控える時期に落研を作ってしまったんだから、勉強なんかに身が入るわけがない。ワイワイやって、初めての学校祭。一番終わりに高座にあがるんだけれど、小柳君がもうすっかり私なんかより上手で、なんと「死神」なんぞを得意にしているというとんでもない奴で、トリで上がる私が「寄合酒」なんてのをかけるというていたらく。格好悪いっちゃありゃしない。
 同級生の柳沢君が衣装屋に知り合いがいるっていうんで、紋付き羽織を借りてきてくれたから、それでも紋付きを着た写真が卒業アルバムに載っている。
 そこまで好きなら、普通大学に入ってからも落研で良いんじゃないかという事になるだろうに、高校で後輩から「師匠!」なんて呼ばれた経験を持つ人間が、大学に入ってから一からやらなきゃならないのはちょっと耐えたくなかったものだから、入らなかった。あれからこっち、人前では一回もやったことはない。自分の名前を自動車修理屋さんの息子の寺島君に譲ったところまでは覚えているけれど、そのあとは全く知らない。もちろん今のその高校に落研はもうない。
 あるお方のおかげで、三遊亭圓生の「松葉屋瀬川」と柳家さん喬の「雪の瀬川」を昨日の夜中、今朝にわけて両方とも聴いた。今の世の中は便利でございますなぁ。

2014年12月06日のツイート