ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

えッと驚く

その1

 心筋梗塞に見舞われた岩上安身のIWJでの「東京大学名誉教授・板垣雄三氏インタビュー」その第2弾でこんな説明がなされている。

 パレスチナは、ガザ地区に基盤を持つハマースと、ヨルダン川西岸地区に基盤を持つファタハとの間で、事実上の分裂状態にあった。この分裂状態を解消し、「ウンマ」と呼ばれる世界のイスラム共同体の結束と連帯のためにも、パレスチナ人が分裂状態を解消して統一を達成するよう呼びかけたのが、マレーシアのナジーブ首相だったのである。
 その意味で、パレスチナおよびイスラム世界の分裂状態を継続させたいイスラエルにとって、マレーシアは煙たい存在なのである。

 つまり、一連のマレーシア関連事件はこうした背景を排しては語れないというのだ。これは驚きではないか。しかも板垣雄三の話の「驚き」はこれに終わらない。すべて聞いておく必要が充分にある。

その2

 ロシアの野党党首でボリス・ネムツォフ元第1副首相(55)が27日深夜、モスクワ市中心部クレムリンの南に流れるモスクワ川にかかる橋の上を知人と歩いているときに、近づいてきた白い車から銃撃を受け背後から少なくとも6発の発砲があり、4発が命中した。
 正に暗殺だ。誰が見る目にも、政敵を抹殺した独裁国家という図式が見えてくる。暴力国家だ。

その3

 逮捕された17歳の少年が「18歳がやった」と証言している中、平然と18歳は「今は話さない」といっているという。物的証拠が出ているようには今のところ見えない。しかし、逐一テレビが報告している。捜査状況はすべてダダ漏れで、今この時間に聴取が行われているかいないかまでテレビが報じる。

記者会見

 2月25日に外国特派員協会で、「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明・宣言」に賛同している今井一氏、マッド・アマノ氏、平田オリザ氏、古賀茂明氏、中沢けい氏が会見をしたそうだ。もはやこの種の記者会見は日本の記者クラブで行われることはとても珍しくなってしまっていて、こっちの方が主流になってきた。そのこと自体は日本のジャーナリズムにとってはとても大きな問題だと思う。つまり、日本の記者クラブではフェアネスが保てないという認識が定着してしまったということだからだ。
 ここで元通産官僚の古賀茂明が「報道ステーション」降板の真相を語っていた。

古賀氏:正確に言うと、特にテレ朝との間で契約があるわけではない。テレ朝の立場から、するとその時その時でお願いをしているので、クビにするということではない。
 聞いているのは、番組に誰を呼ぶのかはプロデューサー中心に決めているが、私は忙しいので3ヶ月先まで決めていて、毎月1回出て下さいという話がベースにある。報道局長が私の出演を嫌がっていると去年から聞いていたが、1月23日の発言以降は、"絶対出すな"という厳命が下っていると。これは報道局長に直接言われたわけではないので聞いてみたいと思うが、もちろんトップの意向を反映していると考えている。
 3月は6日と27日に出る予定だったが、キャンセルすると大きな批判が出るだろうということで、出演が決まっていなかった4月以降は出演禁止だということだと思う。
 昨日のテレビ朝日社長会見では、私の出演について「決まっていることは何もない。官邸から圧力を受けているとは承知していない」という回答だった。

 ジャーナリズムへの安倍晋三の圧力は相当に高いことがうかがえるが、日本のジャーナリズムといっても実にたいしたことのない自立性の上にあることがわかる。多くの人が娯楽箱に騙されている。(こちら

日常化

 学校へ行かない子というのは今や市民権を得ている、という言い方をするとおかしいけれど、かつてのように珍しい存在ではなくなってきているということを感じる。昔は「登校拒否児」といわれていたけれど、今では「不登校」と言葉は変わっているのだけれど、彼らを受け入れる機関が今では増えている。北区に東京シューレという私塾がある。学校へ行かれなくなった子どもたちの居場所として作られたのはもう30年近く昔のことだ。奥地圭子が自分の子どものために作ったそうだ。2000年にはNPO化され、2006年には学校法人を作った。自分の子どものために始めてからここまで発展させてきた力には頭が下がる。
 昨年の9月に安倍晋三がここを見学している。奥地圭子はこのチャンスを生かしたいと発言している。

本来、どんな状態の人にでも、それを支える社会的仕組みがあって当然なんです。医療や福祉がそうです。やはり「学校外」の育ちを認めず、学校へ戻そうとしてきた、そこが根本の問題です。(不登校新聞インタビュー2014年10月31日 15:56 こちら

 どんなチャンスでも捉えてできる限りの支援を引き出していくことは必要だ。それはわかる。しかし、私が持った違和感はこれを見に行った安倍晋三の真意がどこにあるのかということなのだ。というのは、彼は昔から都立の養護学校の教育のあり方に異議を申し立て、学校現場における強制的な指導の旗を振ってきたからだ。先日の衆議院予算委員会での「日教組!」ヤジを見てもわかるように、彼の教育観は非常に旧態依然であることは想像に難くない。
 翻って東京シューレのこれまでの主張は、教育現場にはいくつもの種類があって良いではないかというものではなかったのか。子ども一人一人の個性に合った教育方法の創成であり、教育の受け方の選択肢が増える事だったはずで、そのズレが知らないうちに埋まっているとはにわかには思えない。それでも、ひょっとしたら誰かの影響を受けて、彼の中で価値観の変換が起きていないとはいえない。
 教育現場の多様性ということをいうと良く米国に見られるようなホーム・エデュケーションやシュタイナー学校が持ち出されるけれど、それは多様な考え方が先にあって、その存在の受け入れが前向きな社会だから存続が可能になる。今の統制的な社会観の中でそれが可能になるのかといったら、むしろ否定される可能性の方が高い。
 日本でのこれまでの30年を見てくると、そうしたニーズが起きたから、暗中模索の中で北星学園余市が出てきたのであり、夜間中学が人知れず行き残さざるを得なかった。児童教育研究所的な機関がただの元校長の受け入れ機関だったのが真剣な対応をせざるを得なくなった。方向性が逆だった。今ようやくそれが教育の多角化へと目が広がってきているのかと希望を持たせる。
 一方、川崎の事件を見ていると、むしろ教育の現場では学校へ行けない、行かない子どもが日常化してきてしまっていることを窺わせる。今や教育の現場では学校へ長期にわたってこない子どもたちが珍しくなくなってきているのではないか。緊迫感が欠如してきているのではないだろうか。

2015年02月27日のツイート