ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

12月14日

 ノートに今日の日付を書きながら、この日って確か何か非常に全国的なことがある日だったんじゃないかなぁと思ったのだけれど、ハッと気がついたら、そうそう、赤穂浪士の討ち入りの日じゃないか。昔はもっともっと、この討ち入りの話が取り上げられた日だったと思うが、今じゃラジオを流していても、ほとんどそんな話は出てこないねぇ。もう日本人は飽きちゃったのかも知れないねぇ。興味はハロウィーンとか、そっちの方にいっちゃったのかねぇ。渋谷のスクランブル交差点を赤穂浪士の揃いの格好で、「イェ〜イッ!」なんていいながら、槍の先に吉良の首に模した風呂敷包みをぶら下げて泉岳寺まで行進したりしないのかね。

伊方原発

 広島高裁は13日、運転差し止めを命じる決定を出した。野々上友之裁判長は「阿蘇の過去の噴火で火砕流が到達した可能性は十分小さいと評価できず、原発の立地は認められない」と判断し、来年9月末まで運転差し止めを命じた。
 これに対し世故疎っちゃん坊や経済産業大臣は「原子力規制委員会が世界的に最も厳しいとされる新規制基準をクリアしたと判断した原発については、安全最優先で再稼働させるという政府方針に変わりはない」とコメントしたと時事通信社が報じている。
 高等裁判所如きの判断なんて知ったこっちゃねぇ矢というのが経産大臣の発言である。なんと傲慢な男だろうか。

かに玉餡かけ饂飩

 今しきりに丸亀製麺がテレビで宣伝しています。ものの見事に釣られて食べに行きました。690円。確かに蟹の香りがします。写真には蟹が4本ですが、私のものには2本しか入っていませんでした。席が中途半端にしか空いてなくて、4人テーブルにおじさんがひとりで食べていたので「失礼します!」といいながら対面に座って食べた。するとそのおじさんが食べ終わって立ったあとに、女子ふたりが「良いですか?」といいながら座った。なんでここへ?隣のテーブルに座っていたじゃないか?と思ったら、もうひとり連れがいたのだった。しかし、彼女たちのトッピングがそれぞれ大きな天麩羅を別皿に盛っているのに、饂飩の上には揚げ玉とネギがしっかり載っておったのだ。いやいや、食欲があるというのは健康ってことでござる。家で揚げ物をするか、買ってくるかという話になっていたのだけれど、片方の女性が揚げ終わったらすぐさま固化剤を投入しちゃうのだといっていた。それって、一度しか油を使わないってことなの?と聞きたくなった。
 2週間に一度の新宿へ行く日だったので、これが食べられたのですが、わが家の近辺には丸亀製麺はありません。あぁ、だから長野の友達の家に遊びに行ったときしか丸亀製麺に入ったことがなかったのです。それでもちゃんとした讃岐うどんというのはこれまでに食べたことがないですねぇ。
 某美容整形外科の極右差別主義者の医者が「昭和天皇独白録」の原稿を3000万円も出して落札し、これを皇室へお返しするんだと宣言したという一件が取り上げられないようなら質問しようと思っていたら、案の定話に出た。昭和天皇が語られたことをメモっていた当時の侍従、寺崎英成のものを文藝春秋が出版したものだけれど、当時、メモっていたのは5人ほどがいたのだそうだ。この種の原稿は孫に当たる世代くらいになると手放すケースが多くて、今回も文藝春秋社の人に聞いたら、なんであんなことになるんでしょうねぇ、うちにはコピーがあります、といっていたんだそうで、明らかに売名行為そのもの。彼らは皇室を利用しているというだけだと。
 今上天皇と今の皇太子は昭和天皇の戦後の考え方を確実に受け止めている。今上天皇の追悼と慰霊の旅はまさに昭和天皇の考えを具現化しているものであり、皇太子が天皇を継いだときにも引き続き、こうした考えに基づいたことになるのだろう。皇太子が天皇となったときにどのようなことを発言、それも今上天皇の目の前でするのか、非常に興味深い。というのが今日の保阪正康の話で印象に残った話だった。
 そうそう、自分の繋がりのある人の全て並べたら多分4-5千人に上るだろうけれど、多分稚内から出たことがない人から、沖縄から出たことのない人につながるまでに、かつては14-5人を辿ればつながるんじゃないか、といわれていたけれど、今だったらこれだけ通信システムが変わっているんだから、5-6人ぐらいで到達するんじゃないだろうか、これを出版したらどうだろうとまでいっていたなぁ。

季刊清水

 静岡の戸田書店が出している”季刊なのに、年末に一冊出るだけ”な「季刊清水」の第50号が出た。特集が「由比」なのはこの雑誌に関わっている清水出身の装丁家、石原雅彦氏のブログで読んで知っていた。由比は非常に急峻な薩田峠の麓にあって、年に二回の桜エビの漁港として、そしてまた台風時期に必ず東名高速と国道が高波で通行禁止となるところとして知られている。
 清水在住のころは良く車でこの沿線を走った記憶がある。三保に暮らしていた子どもの頃は「桜エビ」といったら干したもので、角や足がつんつんして口の中で刺さり、あんまり好きなものではなかった。大ぶりの車エビの海老フライこそが海老だと思っていたから、数段劣る食い物だと思っていた。それが二度目の清水暮らしをした20代後半には新清水の駅の向かいの飲み屋街にあった寿司屋で生しらすやら生桜エビを食べるにいたって、やっぱり地元でないと食べられないものには旨いものがあるんだとわかった。
 ところが興津にしたって、由比にしたって、全く街を歩いたことがない。興津に昔あった水口屋という料理屋にスポットで何回か、仕事の関係で行ったことはあっても、それはただの定点訪問でしかなかった。行こう行こうと思いながら、とうとうこの歳になった。
 この特集で想い出したのは学生時代のサークルにいた由比出身の先輩のことだ。二年上の先輩だが、私は在学中に彼女が由比の出身で中高がうちの姉たちと同じ学校だったことも聴いていたから、お薦めしようと思って電話をした。彼女は、先月も顔を合わしていたけれど、ほとんど私に関心がないからかつて私がそういう話をしたことも覚えていないし、one of 後輩sとしてしか見ていないから、かなり警戒心を持っていたようだ。この歳になってそんな「騙り詐欺」でも近寄ってくるのかも知れないなぁとは思うが、なんだか剣突を食らったようで甚だ面白くない。余計なことを思いたった自分が悪い。
 ところで、この第50号には他にも特集があって、日系米国人のひとりを取り上げた人がいる。もともと三保半島にはアメリカから帰ってきた人たちが住んでいたことがあったらしくて、掘ってみると面白いことがある。ここで取り上げられている藤田晃という人は、かつてジュビロ磐田でプレイをしていた藤田俊哉の大叔父さん、つまり父親のおじさん、に当たる人のようだ。藤田晃はカリフォルニアの生まれだけれど、2歳で日本の祖父母のところで育ち、戦争前に米国へ帰った、ある意味「帰米二世」。戦争中にツールレークの収容所にいたということは「ノーノーボーイ」だった。彼は1980年代に二冊の小説を著しているのだそうだ。
 この特集はいわゆる日系米国人二世・三世の戦争中の状況の一般的な解説に終始してしまっているきらいがあって、藤田晃自身についてもう少し詳説されていると良かったのだけれど、その辺についてはあまりつまびらかにされていないのだろうか。写真がとても見づらいのが残念だ。

2017年12月13日のツイート