ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ゆとりは楽じゃない

 2チャンネルという匿名掲示板ができて以来、匿名で自らの所在を隠して、自らを名乗ることなく、ヒットアンドアウェイで何かをやる、言い放つと云うことに対する「後ろめたさ」というものがなくなった。
つまり、自分の考え、自分の意見というものが果たして本来的な正義、揺るぎない正義に立って考えると、これで正しいのだろうか、あるいは人道的に間違ってはいないのだろうか、という検証をしなくて良くなった。
 かくいうおまえも、このどこにも自らの名を記す行為が為されていないじゃないかという指摘があれば正にそのまま、なのである。これから先は、そうした社会になっていくのだろうと思う。一度味わったものは止められない。
 ということは今や、自分の世の中における位置、なんて云うものを検証するつもりもないし、そんなことをしなくても許されてしまうのである。これは実に楽である。自尊心を容易に満たすことができる。つまり、世の中は楽な方に流れると云うことになっている。
例えば「愛国心」という言葉がある。本来的に国を愛する、自らが生まれ、育ち、その本拠地とする土地を、文化を、価値観を愛すると云うことだろうと私は思っている。
 ということは自分が「生まれた」土地を原点とした文化にこだわらなくてはいけないわけではないし、その文化そのものも時代とともにどんどん変化していく。それでも、ある文化を愛する心なのではないかと思う。だから、一人一人の愛する文化、国は異なって当たり前なのではないか。
しかし、それを単純に現在ある境界線で囲まれた地理的、物理的に切り取った中の生活を無理やり当てはめられてそれを愛せよ、というのは非常に楽な考え方である。全体主義的な愛国心というのは非常に楽な考え方である。できるだけその地域にいるマジョリティーを単純に割り切って、それが正しく、それ以外はまったく間違っている、と割り切るのだから。今でも「不敬罪」という言葉や、「非国民」という言葉が死語にもならず、2ちゃんでは正々堂々と通用する。○と×に分けるのは傾向がはっきり出てわかりやすい。
 幼い価値観では、「許されるのだろうけれど、正しいというわけではない」という価値観、あるいは「間違っているのだけれども自分の責任でそれを実行すること」に対してそれなりにあったような世間の評価もまったく考える力がない。
今だったら、あの「太平洋ひとりぼっち」の堀江青年は2ちゃんでどう評価されるのであろうか。ありていに申し上げるとあの人質三人衆の方が動機ははるかに高尚である。
 わたしたちの世代はどうも子どもの頃から、自分は今どんな立場にいて、世の中のどれだけを自分が身につけているのか、というところを気にしながら暮らす、というクセというか、習慣というか、世の中一体にそうしたものが当然として受け取られる世界だった。
 それを早く手に入れるためには、できるだけ背伸びをすることがこれを可能にしてくれるような気がしていた。だから、中学一年生の時に同級生が手にしているようないわゆる名作ものを極力排して、玄人受けのする本を読もうと考えて、(今はもう中身をまったく覚えていないのだが)田山花袋田舎教師や蒲団なんてものを手にしたりしていた。
 話は外れるが、とにかく本を読みふけりたいと思っていたので、図書館にあった個人カードを一年間で埋め尽くそうと目標を立てていた。幸いなことに最初の一年間通っていた中学校も、引っ越しで転校し、二年間を過ごした中学校でも電車で通学していたから本を読む時間には事欠かなかった。
今から考えてみると、あの頃が一番本を読める時期だった。
中学三年から英語塾に通い出して、高校にはいるとそれまで以上に本を読む時間を確保できなかった。今のようにブログや掲示板に逃避するチャンスもないから目の前にぶら下がっている課題をこなすだけでフウフウしていた。閑話休題
だから、早く大人になりたかった。それはなぜか。大人になれば、やって良いこと、いって良いこと、そう振る舞って良いことと云うのが厳然と存在したからだ。しかし、いつまで経ってもそんな歳になっているのにも拘わらずなかなか自分ではそんな自分に達していないのではないかという不安があったし、いまでもどこかにある。
 今でも、自分がこんなことを言っても良いのか、やっても良いのか、態度をとって良いのかがわからない。僕たちが少年(この言葉が表す年齢もずいぶん下がってしまった)の頃、おじさん、おじいさんがしている態度が格好が良くて、一体いくつになったらあんな格好をして良いのか、一体いくつになったらあんなに決めつけた発言をして良いのか、それすらいくつになったらわかるようになるのかがまったく不明だった。
つまり、いくつになってもそんな決めつけたことをしたり、やったり、云ったりができないわけである。
 これは、例えば今ラジオを聴いていても、40年前の放送作家といっていた人たちを見ていても云えるのではないかと思っている。あの人たちは今ではその社会の誰よりもいい歳を扱(こ)いているにも拘わらず、一生懸命取り入れようという姿勢を見せ、価値観について戦おうとする。
 現在の社会を振り返って考えてみると、ここに取りあげたものがすべて裏返しになってしまっていることに気づく。できるだけ大人になりたがらないし、大人でない自分を誇らしげにしている。幼さが武器になってしまう社会はやっぱり前向きに動いているようにはどうしても思えない。
 例えば、大学生が外国のガキファッションを喜んでしているなんて、こりゃどう考えても幼児化そのものだし、女の子たちがしている、どこかの町の「商売女」(全くの差別用語に今やなってしまうのでしょうねぇ、どうぞお許しください)の様なファッションの恥ずかしさったらありゃしない。こうなるとスカートの中の写真を撮ろうとするバカもバカだけれど、こんな恰好をこれ見よがしにしているアホもアホだよ。
 でも、幼児がどんな恰好をしていたとしても恥ずかしいなんてまったく思わないのと同じように、どんなに未熟な恰好でも、未熟な考え方でも、未熟な価値観であったとしても、未熟な経験、体験に基づく議論であったとしても、それを「オイ、ありゃ誰だい?」という指摘をまったくかわして投げつけるのであれば誰にでもできるわけだ。
 そしてこの傾向はどんどん加速されてくる。何たって、楽だもの!ねぇ〜、ご同輩?