ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

毛利衛さん

 今朝のラジオで毛利さんが話しておられたのを聴いて自分の過去を振り返った。といってもたかだか高校時時代の話である。というのは、大学に入ってからこっち、全くの文化系の人間だと自分を理解してきた。なぜって論理的なものの考え方なんてものを身につけていないし、数学ははなから苦手だと思っているし、どこかの本のタイトルじゃないが、いかにも「頭の悪そうな人の話し方」しかできないし。だけれども、少なくとも高校2年生くらいまでは地学も好きだったし、化学も面白かった。どちらかというと自然現象の理屈というか、その解明、解説を聞き、知るのが面白くて仕方なかった。しかし、考えてみると子どもの頃はそんなことにいくらも興味を注ぐのではないだろうか。それが当たり前なのではないだろうか。
 それなのに、なんで面白くなくなっちゃったんだろう。あれにもこれにも時間をかけることができないと思いこんで斬り捨ててきたんじゃないのかなぁ。つまり効率よく点数の稼げるものに自分の時間を傾斜配分してきた。そうした考察の結果(もちろん遊ぶ時間も、テレビジョンを見る時間も確保しなくちゃならないわけで)、数学IIB(今はこんなジャンルはないのかな?)まではやってきたけれど、数学IIIでは放棄したし、周囲もそれでいいんじゃないかと思っていた。とまぁ、こういうことではなかったかと。
 しかし、地学の「飽和水蒸気量」の話とか化学の(なんというのか知識がないけれど)反応式のおもしろさなんていうものに気持ちがあったことは思い出せる。実は生物も物理も高校生の始めの頃は面白いと思っていたようだ。「ようだ」というのは、地学や化学のようにこれが面白かったというものが今思い出せないからである。それでも高校生の後半には全くこの辺のことに興味を示した記憶がない。
 その頃、多分自分の中で、どうにかこうにかこなしていけそうなものを無意識的に、非自立的に選択していたと云うことなのかもしれない。しかし、何回も云うように、それは効率よくやっていけるかどうかという観点だけの価値観に立脚していたのだろう。私の人生上の選択価値観は知らず知らずのうちにメインストリームの思想に染められてきたと云うことなのだろう。だからこそ教育は大事で、底知れぬ力を持っているのだとおもう。じわじわと植え付ける作戦が知らないうちに勢いと深さを増して行くことをきちんと指摘して行かなくちゃならない。サブリミナル効果を意図する勢力の動きはやっぱり意識していない人たちには現実感を持って迎えられることはない。
 ・・・・また、話が飛んでもない方向にきてしまった。これだから・・・。