ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

盛りだくさん

 第31回芥川賞受賞作品はモブ・ノリオの「介護入門」だそうだ。で、これ、文藝春秋に掲載されている。これ、一冊770円する。で、その肝心の「介護入門」は書店店頭に平積みされているけれど、これは一冊1000円だ。一体、こっちを誰が買うのだ?
 かつてうちの親父は毎月毎月この文藝春秋を読んでいた。読んではいたが、この一冊の中に挟まっている宣伝用のはがきやら、宣伝の類をバリバリ引っぱがしていた。すると、この雑誌はあっというほどに薄くなってしまうのであった。で、文藝春秋というのはかなり右側にいる。「介護入門」を読んでみたくて大変に久しぶりにこの雑誌を手にした。
 すると、なんと石原慎太郎の「特攻と日本人?ある見事な青春群像」という文章が前の方に掲載されている。美化するわけじゃない、といいながらの「ある見事な特攻美化」である。

結婚したばかりの関大尉は、「僕は天皇陛下とか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛の妻のために行くんだ。命令とあらば止むを得ない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛のもののために死ぬ。どうだ素晴らしいだろう!」と敢えていっていた。

そして、

特攻隊員は皆自ら志願していったというのは、彼らを死地に追いやった上官たちの後ろめたさを隠す作り話に過ぎない。そんなつくられた美談よりも、関大尉の真率な心情の方がはるかに美しい。
 その思いを込めて私はこの物語に『俺は、君のためにこそ死ににいく』というタイトルを付けました。

 そう、来年の敗戦60周年にあわせて石原は映画のシナリオを書いたのだそうだ。これは来年公開される映画だそうだ。配給はもちろん東映。このてのものは昔から東映と決まったもんだ。何しろ、やくざ美化運動にあれだけ傾注して、その存在の社会化に大いに貢献しているのである。何とか・ロワイヤルって映画もここだったな。
どうしてもぼろ飛行機に乗って敵にぶつかる戦法を考え、それを兵士に強いる作戦を美化するため、正当化するためには、彼らが自ら“自分の周りにいる人たちを守りたい、こんな鬼畜米英から、愛する人たちを守りたい”という純粋なその発想から死んでいったということにして、それを強調したいらしい。そしてだからこそ、こうして死んでいった人たちを慰めるために天皇靖国公式参拝するべきだと結んでいる。

 天皇のために死ね、日本のために死ね、と教育されてきた青少年たちが、「天皇のため」と書かずに、「妻のために死ぬ」と書き表す事が、軟弱というそしりを免れず、下手をすれば非国民呼ばわりされないか、という危惧はかなり大きかったはずである。そうでもしなくては自らの疑問を一掃して自分が情けないまでにスポイルされた状況を納得・・・いや納得なんてできなくて、半分やけになりながらも、それを残すという結果になっているのではないだろうか。石原はここでまったく自分の思いこみだけで書き続けているわけで、当時まったく生まれていなかった私がこうして書く事と、何ら違いはない。

 私は特攻という、自分自身を武器そのものに組み込んでしまうという発想を「潔い」と評価し、あるいは「滅私奉公」という概念を基本的なベースにおいて自己の武器化を当然化する事ができてしまう青少年を作り出してきた『教育』の恐ろしさについて気が付かなくてはならないのだと思う。
石原が、「彼らの美しいまでの他己愛」を謳えば謳うほど、彼らをそういう判断に走らせたその『教育』を大きく憂えるものである。どんどん、あの当時の価値観を復活させようとする群れを警戒せよ。

 しかも彼は、知覧の旅館を経営していた女性の生前の話として、生き残ってしまった特攻隊員の一人について書いているが、これがどこまで事実かが判らないだけではなくて、これひとつで、生き残った特攻隊員が死ぬ事ができなくてかわいそうで、本人は苦しんでいた、としてしまっている。とんでもない話である。わたしたちがまだ子どもの頃、元特攻隊員だった、あるいは人間魚雷「回天」の乗り組みだった、という人たちが結構いた。この人たちはかなりはっきりした意見を持っていた。生き残ってしまって戦友に申し訳ないという気持ちを持っていたことは確かだ。ということは、生き残ったという事が死ぬという事よりも圧倒的に良い、という価値判断がその底辺にあるからだ。だからこそその戦友に対して後ろめたい。そして、その生き残った人たちはそれぞれ、「戦争はあかん!」と言い続けていた。軍は如何に彼と、彼らの命を軽く扱ってきたか、という事を語っていた。彼らはその後どうしているのか知らないが、石原慎太郎のこの文章をどのように読むのであろうか。

 東京都の公立中高一貫校は正式に社会科の教科書として扶桑社の「新しい歴史教科書」を採用する事に決めたと発表された。なんとこの鉄面皮。そうして来年の8月は大きく右に傾いた社会に踏み切る事になるのだろう。「そんなバカなぁ・・今時そんな事できるわけないじゃないか・・」といって軽んじているうちにどんどん右に急旋回している。

靖国神社に祀られている特攻隊員たちの慰霊に参るたびに、彼らの悔しさを思わないわけにはいきません。

彼らの悔しさは、あんたたちの前でなくて、本当に愛する妻の前であれば聞く事ができるだろう。それはこうして非常に効率の悪い、彼らの真剣な気持ちをあたら死に追いやることで危機感を煽り続けた軍に対する恨みではないか。
嘘を付くな。喜んで死んでいけと外面(そとづら)良く教育し続けたのは、おまえのような、自分はバックシートに座って若者をあたかも自分の持ち物のようにあごで動かした奴らなのだ。