ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

お詫びをする、としなくてはならない

ずいぶんと前からここが問題だ思っていたのだけれど、どうも日本語というのは正確性を欠いた表現が許され、それを聞いたひとがその表現から慮ると云うことで成り立っている。しかるにそうした内輪だけで理解のできる表現を使うと、外から見ると何を言っているのかわからない、という問題は多く存在する。僕たちだって、英語を非常に限定された地域での慣用句を使って表現されたら何を言っているのかわからなくて、口あんぐりとなっても仕方ない。
こんなことをいっているのは何でかというと昨日朝の橋本龍太郎の言葉である。

「こういう事態になったことは、私は本当に残念に思いますし、結果として非常に大きく政治への信頼を揺るがしたと思います。その点はおわびしなければなりません」(2004.08.30アサヒ.コム)

日本歯科医師会政治団体日本歯科医師連盟からもらった一億円の小切手について、派閥の政治団体の会計責任者の逮捕に際してのコメントである。朝日は「橋本氏謝罪」と書いているが、日本ではこれを謝罪というのであろうか。しかも、その後彼は「すでに司法の手に移ったのであるから」「これ以上ここでは云わない」と言い置いて去っているのはテレビのニュースでも映し出されている。
これを「謝罪」というのだとすると、これは誰に対して謝罪をしているのかという疑問もさることながら、ずいぶん居丈高な「謝罪」である。
彼はあくまでも【会計責任者の逮捕】について「こういう事態になったことは・・残念に思う」のであり、お詫び「しなければならない」のだけれど、それをいつするのか、どこでするのかについては一言も言及していない。つまり、「やらなきゃダメだ」といっているんだけれど、「やっている」といってはいないのだ。


わたしたちの国があの戦争でさまざまなことを国内外を問わずやってしまったし、やられてきた。勝った奴は原爆を二個所にも落として非戦闘員を何十万人と殺傷したにも拘わらず、負けた奴がすべての悪の原因だとした。確かに、いろいろなことをした。でも賠償を払い、謝罪したじゃないか、この上いつまでも何を責めようってんだ、という意見が日本人の中に徐々に増えてきている。いい加減にしろといっている。日本チームに対してブーイングした中国は世の中知らずの偏向教育国家だと云っている。


私が思い出すのは、日本政府が表明する謝罪というのが本当に謝罪として相手に伝わっていたのだろうかという点である。
そうした時によく使われる「はなはだ遺憾と感じる」という言葉が「ごめんなさい、申しわけありませんでした」という意味にそのまま解釈されるのか、という点である。確かに「すみませんと謝ったことになる」(三省堂 新明解国語事典)とされてはいるけれど本来的には「残念な気持ちがすること」であり、そういう気持ちを心に持つことを伝えて「ごめんなさい」という意味にするという、はなはだ複雑な表現である。


「わたしたちの間には大変不幸な出来事があり」というのもある。
やられた方にしてみると、たまたまそこにいたことは「不運」だったかも知れないが、そしてその結果はとても「不幸な局面にさらされることになった」のかも知れないけれど、「やった方」に”不幸”と云われるのは如何なものだろうか。


こうしてわが方は「謝った」「することはした」といいつづけるのであるが、やられた方にはいつまで経ってもちっとも謝意が伝わってこないのではないだろうか。
橋本某氏が「しなければならない」と云ってもそれが私に「お詫びをした」というニュアンスで伝わらないのは、橋本剣道氏の姿勢にそれが表れていないからではないのか。
それだのに、あのときに謝った、こうしていった、それ以上の何が必要だというのか、という姿は居直りではないかと思う。


米軍がヘリを落っことして(意図的に落としたのではないし、できるだけ惨事を回避しようとした乗り組みには功績大であると司令官は言及して顰蹙を買っているが)、地位協定があるから、これで終わり。はい、さようなら、とした米軍に怒り心頭なのは、まったく私の感情を無視しているからである。「そういう約束になっているんだから問題ないだろう」と米軍に云われても「人間としてひとを危険にさらしておいて、そういう約束だから知らないってのはねぇだろう!」という気持ちを抱く。