ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

新聞記事

 先日の朝日新聞での特定民間業者の有料老人ホーム(この表現にも問題がなしとはしないが)に関する記事でもそれは言えるのだけれども、新聞記事というものは相当な主観に基づいて書かれていて、書かれている内容そのものに信憑性があるといえるのかというとそれは相当に疑ってかかる必要がある。そんなことは誰でもがわかっていて「新聞のいうことはいい加減だ」という表現をする人は多い。ところがそうした人たちの主張そのものも大いに自分の都合の良いところだけでそれを断じている。例えば自分もしくは自分が所属している団体、法人について批判的に書かれればその媒体は偏ったものであって、肯定的に書く傾向にあるものは比較的正しいというものであるとする。
 もう一つは紙上での記事の大きさである。たまたまその記事よりも扱いが大きくなるものが他にあるかないかによって大きさも見出しのサイズも変わってきてしまうことを理解しておく必要がある。その上、その社が本当に独自にどこも知らないうちに書いたものは扱いが大きくなるけれども、当事者にその中身についてちょっとでも正否を確かめたり、題材を提供されてしまったりするととたんに小さくなったりする(これは本来逆で良いはず)。つまり、中身も大きさもそのフォローアップもその時の他の記事の都合、自社内の事情、締め切り時間の関係なんかでどんどん変えられてしまう。挙げ句の果てに見出しを付ける人間がその分野についてきちんとした知識を持っていなければ、より扇情的あるいはフライング気味なものがつく。
 そうやって考えると新聞記事ははなはだ根拠が薄いものが多い。書こうとすればどんどん書けるのだから。だから新聞記事に頼って調査をすると全く微妙なニュアンスにおいて間違いを起こす。だから今自分が調べたい分野についてその調査の手だてが見つからない・・・という自己弁護の顛末。
 それでもそういう媒体であることを充分加味した上で、その時点では媒体がどんな切り口を求めていたかをはかることは可能といっても良いかも。その意味では対象について直接取材することなく、その対象についての報告、記事をもとに批判、あるいは評論をすることには大いに疑問の点が残るわけで、直接の取材をする必要がある。万一その取材依頼を断られるということになるのであれば、その時こそそれを明記して周辺ではこのように語られているとして分析すればよい。

団体としての東京シューレに対して、 参与観察などによる一次資料の収集は行っておらず、公刊物などの二次資料に基づいて記述しました。公刊 物はすべての人に開かれたものだと考え、特に許可を求めませんでした。
-東京シューレによる「貴戸理恵著『不登校は終わらない』に対する見解」へのコメント by 貴戸理恵-

 読んじゃいないけれど「不登校は終わらない」という著作についての論争を見ていて思ったことである。
不登校といえば、そうした状況にある人たちのブログはたくさん見つかる。そうした状況にあることを明らかにすることができている人たちにとってブログはとても興味深いツールであると思いつつある。
 で、その一つを読んでいるうちに見つけてびっくりしたのは戸塚ヨットスクールというものが未だに全くなんの問題もなく存在していてHPが開設されていることだった。(これってオウムとどこがちがうのだろう・・)
 あの事件はいったいどうなっているのだろう。それもちゃんとそのHPに記載されている。なんと戸塚ヨットスクール事件が報じられたのは1982年で、何ともはや20年以上経っている。それなのに、HPには突然「戸塚校長の釈放まで○○○日」という表示がでている。ということは彼は収監されている。1983年に収監され、1986年に保釈。1992年一審判決:懲役三年執行猶予つき。双方控訴。1997年二審判決:懲役6年。被告側上訴。2002年最高裁判決:上告棄却。刑確定。つまり、戸塚ヨットスクール事件は確定している。そして、あの傲慢そうな副知事に振り回される勘違い男の石原慎太郎はなんと「戸塚ヨットスクールを支援する会会長」だそうで、このHP上でこういっている。

戸塚ヨットスクールは、その厳しい教育訓練のあり方、死亡事故の発生、歪曲された報道などのため、これまで様々な誤解と中傷に曝されて参りました。

なんだかまるであの死亡事故は自然発生しちゃったような雰囲気である。これじゃ、NZで一人の青年が死んでしまった「コロンバス」だって「死亡事故の発生」といってしまいそうである。
いわく「情緒障害児(登校拒否、非行、家庭内暴力、無気力など)」「教育荒廃という名の文明病に病む日本」「間題児矯正の教育ノウハウ」「私達自身の手で真の教育改革を成し遂げることは、2l世紀に対する私達の責務」だそうだ。
 こんな言葉の羅列を見ていると吐き気を催してくる。こいつはきっと軍隊的な行進訓練が好きに違いない。匍匐前進なんて子供にやらせて横で「うんうん」なんて頷いていそうだ。疲れ切ってぐっすり寝たら悩みなんて吹っ飛ぶぞ!といいそうである。「トランス状態に入ってしまえばこの世は天国方式」と名付けよう。都が直轄で押しつけることができる養護学校や、都立の学校を舞台にやりたい放題、いいたい放題のこんな男がまともな行政の能力もないのに帝都東京(こんな言い方大好きでしょ?おじさん!)の首長だなんて、本当に恥ずかしい限りである。それでもこの人を選んだのは都民のみんなだよ。
 それにしても戸塚宏を中心として現在収監されている関係者は明らかにこの刑に服することによって更生が期待できない。なぜなら、刑に服している最中からでたらこれまでの活動をどんどん再開するといっているわけで、なんら事件発生時(傷害致死)の状況を悔いる状況にない。これは刑法の趣旨に反するのではないのか。保護観察が必要じゃないのか。(なんの根拠もなく書いてるなぁ)。
 誰も彼も同じ理屈で断じる世界は危ない。