ほぼ足りてまだ欲 その先

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山内一弘

 訃報。享年76歳。
 彼は毎日オリオンズに入った。毎日オリオンズが永田ラッパの大映スターズと合併して大毎オリオンズになった。そして小山正明とトレードされて阪神タイガースに来た。山内といえばすぐ想い出すのは背番号8だった。私の気持ちの中ではやっぱり毎日の山内だった。新聞のコメントを見たら小山正明のコメントも入っていた。彼ももう74歳である。
 大映スターズの話からウィッキペディアをためつすがめつしていたら、高橋ユニオンズの話を思いだした。ウィッキペディアによると、1954年に高橋ユニオンズができて、翌年は鉛筆のトンボ鉛筆が冠スポンサーになったから、トンボ・ユニオンズと称し、1956年にはまた高橋ユニオンズに名前が戻ったと書いてある。しかも、本拠地が川崎だった。ここまで来てようやく膝をポンと打つことになった。
 私は当時横浜、東横線の反町に暮らしていたから、一番近いプロ野球の球場が川崎で、子どもの頃から父親に連れられて助六の折を持っては通った。高橋ユニオンズと云えばなにしろスタルヒンが投げていた球団で、私はもちろん見た記憶がある。後の解説者である佐々木信也が戦争直後の甲子園で神奈川県立湘南高校の一員として優勝して慶応を経てプロ選手になったのがこの球団だけれども、私には全く記憶がない。
 「トンボ・ユニオンズ」という名前はとても変な名前だなぁという記憶で、それもたった一年しか呼ばれていないわけだから、長ずるに及んであれは本当だったのかと思っていたこともあったくらいだ。東映フライヤーズ駒沢球場を本拠地にやっていたけれど、東京オリンピックをきっかけに壊されちゃった。しかし、あの球場には一度しか行った記憶がない。後楽園球場には阪神のゲームを見に行った記憶がある。神宮に行ったのは小学校に入る前、そしてその次はなぜか高校生の頃だったろうか。夏の暑い日で、見たのがどこの試合だったのか、全く記憶がない。ずっと前に書いたけれど、多分小学生の時に初めて入った野球場は今の横浜球場があるところにあった横浜平和球場という古い野球場だ。