ほぼ足りてまだ欲 その先

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もう祭りだ

 今日からわが界隈では祭りだ。今はどうなっているのか知らないが、氏子町会から通っている児童は土曜日の授業も午前中の2時間目が終わったら下校するということになっていた。というのは土曜日は午前10時くらいから各町会の御輿は大人御輿と子供御輿と一緒になって近辺の町会御輿と一緒になって御霊入れにいく。だから、早く帰ってこないと間に合わない。公立の学校だけれども、宗教のお祭が優先だったわけだ。可哀相なのは同じ学校に通っているけれど、氏子じゃない町会から通ってきている子どもたち。
 神酒所に挨拶に行くと、例年と神酒所が変わっていた。数年前まで済んでいた集合住宅のお知り合いがおられて、四方山話。こういうところが祭りの良いところで、一年間逢わなかった町会の顔見知りに出会う。あぁ、病気は良くなったんだなぁとか、ちょっと老けたんじゃないのとか。
 すぐ傍にある諏訪神社もこっちの祭りと一緒の予定で祭りになる。八幡様も一緒だ。そうそう、界隈みんなで祭りになればよい。
 毎年この界隈の祭りで問題になるのが、町内を巡ってくる神社の本御輿に乗っかる奴が出て揉める。多くの場合そういう連中は本物の悪者集団、あるいはそれに近い集団に所属している。彼等は近隣から半纏一枚いくらで貸し出して若者をかき集める。金集めになっている。噂では一枚数万円ともいう。
 1960年前後、祭りは担ぎ手が払底してどこの町会も困ったらしい。それは都内でなくてもそうで、しばらく御輿が出なかった町会なんてのも他の祭ではあちこちに良くあった。それがこの界隈ではその筋を頼ったのだそうだ。尤もその前からいろいろ跋扈していたのに違いない。
 確かに私が生まれて初めて東京の御輿に加わった1967年頃の赤坂日枝神社の祭は神輿にとりつく人がたくさんいたわけではなかった。この辺もそうだったらしい。1970年代早々の頃は土曜日の連合渡御に行って帰ってくるのは結構大変だった。帰り道、町内に至る間、すかすかの担ぎ棒を辛い思いをしながらそれでも若かったから声を出して頑張ったのをもう忘れてしまいそうだ。
 それがあれよあれよという間に女性が増えて、どんどん日頃町会で見ない顔だけれど、年に一度の祭りの時には必ず出会う連中が増えてきた。その頃だっただろうか、準その筋団体が事務所を引っ越して来ちゃった。その年は本社の御輿の担ぎ棒で揉めた記憶がある。あの時の町会長さんはもう大分前になくなられた。
 札付きの町会は渡御についてくる機動隊が云うことを聞かない奴を確保しちゃったりする。