ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

誰でも同じか

 スイスの氷河特急は事故原因が明確にもならずにいるにもかかわらず、中一日運休しただけで運転を再開した。事故が再発する可能性はないのか。結論からいったら事故ポイントをゆっくりと通過していけば大丈夫だと思っているのだろうか。
 この時期、スイスは観光シーズンとしてはまっ只中であるから長い間運休するわけには行かない。どういう理由でそんなわけに行かないのかといえば、利益を逸失してしまい、それは今年だけでなくて、翌シーズンにまで影響するからである。
 全世界から観光客が殺到している中でコンスタントにやってくるのは日本人、インド人、ドイツ人、近頃増加が目立つ中国、シンガポール。しかし、あの事故で犠牲になった乗客がドイツ人であったら、あの電車会社はどの様にしただろうか、と考えないわけにいかない。今回と同じように中一日で運転再開しただろうか、という疑問は湧く。
 (前にも書いたかも知れないけれど、ユングフラウヨッホにあがるとインド人のツアー客がたくさんいて、記念写真に殺気立っていることに気がつく。なんでもかつてこの地で撮影したインド映画が大ヒットして、インドの皆さんにとってはその撮影地を尋ねるツアーが大人気なんだそうだ。)

平等に扱われているだろうか

 それまで殆どいったことのなかった欧州に出掛けて見て、気がついたのはアジアからやってきた観光客と欧州各地から、あるいは米国からやってくる白人観光客とでは観光地でも、やっぱり同じように扱われていないのではないか、という点なんである。
 もちろん、どこもかしこもおしなべてそうなのではなくて、何となく感じる雰囲気、というエビデンスもなにもないきわめていい加減な推測に基づく話であるのだけれど。
 保阪正康の「なぜ日本は<嫌われ国家>なのか」という本のテーマではないけれど、まったく根拠のない、思い込みに基づく人種に対する偏見、というものがいつまで経ってもそう簡単には払拭できていないということなのではないのだろうか。そして、考えてみると、それは彼等だけに存在しているわけではなくて、私の中にも存在していることは明白だ。
 私は観光地にいって、何人もの、何カ国もから来た観光客に混ざって歩いていて、同じ人たちの中の一人、という意識でいるけれど、時として肩を並べている他国から来た観光客はそう感じていないんじゃないか、という気がしてきた。それは特に多くの人たちがゆっくり順番に我慢しながら動いている時に感じたことでもある。白人の一部には、日本人を含むアジア人に対して、なんで俺たちが彼等の後ろについて歩かなきゃならないんだ、彼等を追い抜いて何が悪い、という意識が見られる。これは今回初めて思ったわけではなくて、以前から例えば空港のセキュリティーのチェックの列なんかで感じられることでもある。
 米国や欧州に行ってみると、とにかくアジア各国と較べたら格段に人口密度は低く、絶対的人口数も較べようがないくらいに少ないのだから、日頃そんな状況に直面したことがない、ということはあるだろう。
 彼等の歴史を紐解くと、もう複雑怪奇でどこから誰が動いた挙げ句の果てに、どんな仕打ちをされ、その結果どうなったのか、断片的に聴いていたのでは整理が付かないくらいである。そうやって交流し、闘い、虐げられてきた。
 しかしながら、今の彼等は他の地域から人が動いてくることに否定的だ。つまり、自分たちが築き上げた既に安定期に入った既存社会に予測の付かない価値観や感情や反応を持った人間がやってくることには、表面的にはどうであれ、受け入れがたい。そしてなんの根拠もなく自分たちが生まれながらに優れているという解釈を抱えていることは否めない。
 そんな人たちにとって、観光客として、つまりサービスを受ける側として、「どうも読めない存在」が目の前に出現することには耐えられないものがあるのだろう。尤も金を出していることについて必要以上の主張をするのはどんな社会からやってきた人であっても醜いものであることには異論はない。しかし、例えばアジア人が客として白人店員の前に出現することについては必要以上に軋轢が生じているのではないだろうか。これは植民地主義の残滓だといっても良いだろう。


 しかし、この話は「私が客で、あなたが店員」という状況下だけで発生する話ではなくて、今度は「あなたが客で、私が店員」という状況でも発生することなのであって「明日はわが身」、ア、いや「人の振り見て我が振り直せ」の話にも当然なるのである。