ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

まちがい、その2

 小学生、いや、幼稚園年齢から「一流」の小学校を目指し、一歩その世界に足を踏み入れ、そこに定着する要領を身につけてしまえば、その階段の先には「一流」の大学というものが存在していて、その最高峰には東京大学という文京区の学校があって、そこから「国家公務員」やいわゆる「一流企業」に入ることが「幸せ」なんだという、非常に狭い定義の「幸せ」。

 そのような敷かれたレールの上に人生の「幸せの方程式」があると思うこと。これが、現代日本の最大の宿痾である。「偶有性」の忌避こそが、現代日本にはびこる「風土病」であるとも言える。現代文明を特徴付けている「偶有性」に背を向け続ける。これこそが、日本の「失われた10年」、「失われた20年」を特徴付ける神経症状だった。

 こんな具合に茂木健一郎が自身の「クオリア日記」というブログに書いている。
 これが結果的にいわゆる「ロスト・ジェネレーション」を特徴付けているというけれど、ず〜っと以前から、明治革命以降どこまでも続いているこの国の風土であって、陸軍大学のトップグループのみが参画することのできた大本営陸軍部があの戦争をあそこまで持っていってしまったのも、戦後の高度経済成長がいかなる国民の犠牲の上に成り立とうがこれを完遂してきたのも、こうしたヒエラルキーのなせる技だった。
 この仕組みが結果的に後の歴史から見て、問題点として指摘ができようとできまいと、そのひとつひとつの時代にあっては「大成功」のその時々のスケールにあってきていたのだから、誰もそれを突き崩すことはできなかった。
 そんなシステムの中では、その分野に正に必要で、なくては考えられない能力を持っていなくても、そうしたバックグラウンドと、世渡りの巧さを備えていると、それだけであとあとまで絶えることのない収入を得ることができるのだから、やっぱりそのグループに入ってしまえばいいのだ、という判断はどんなにこの国の将来を憂えようが、賢明な策の一つであることはいうまでもない。
 高邁な志なんかよりは眼に見える濡れ手についてくる粟の方が遙かに現実的であるという判断をするものを否定しても多分この社会は狭いまま推移する。
 はなはだ、幸いなことなのか、不幸なことなのか判断が分かれるが、私たちの社会は「日本語」で成り立っている。この言語は殆ど国際的な普遍性がない。だから、どんなにネットが発達しようが、ハードの上では国境というものが殆ど無意味なものになろうが、この小さな列島社会から逸脱することもないだろうし、外に向かって浸透することもない。この点で参考になるのは隣の韓国だろうが、どうも言語能力としては彼等の方がひとつ上をいっていて、「狭さ」を逸脱していく力があるように思えるのは隣の芝生だからだろうか。
 もっと会社に媚びて長いこといられるようにやっていたら、生涯年収も相当違っただろうなぁ。本気でそんなこと考えやしなかったけれど、今になってみると、ちょっともったいなかったかも知れないと思ってしまう。この社会は後顧の憂いなき人生は決して送れないのだろうなぁ。