ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

クリスマス 1979

 今からもう31年前ということになるのだけれど、あの年のクリスマスに私はユタ州のソルト・レイク・シティという街にいた。到着したのが12月中頃だったのだと思う。まだ街に雪がなかった。三軒にホームステイしたのだけれど、クリスマスの時にはまだ一軒目にいた。
 その家はSLCでも新興だけれど、若手の比較的成功している人たちのセキュリティー・ゲートのついた分譲地で、一緒にいった研修生の中では最も恵まれたクリスマスを過ごした一人だっただろう。
 旦那は東部のコーネル大を出て、当時働いていたのは病院で使う様々な用品を生産している会社の総務担当のSVPだったが多分彼はまだ40歳くらいだったのではないだろうか。
 ほぼ毎晩、あっちの教会でベルコンサートがあるから、モルモン・タバナクルの歌があるから、ジンジャー・ブレッド・パーティーがあるからと出掛けたりしていたものだから、その家族の友人達からはパーティーを飛び歩くswingerかといわれて大笑いした。
 かみさんがてんてこ舞いして料理を作っていて何事かと思ったら旦那の職場の部下連中を自宅に招いてカクテルパーティーをやった。当日はバーテンダーとホールサービスをする人が雇われてきて、私も参加して料理を並べた。アメリカ人だって公私をすっかり分けてるわけじゃないんだなぁと思った。
 クリスマス・イブの夜、小3と小1の娘二人が寝ると、大人三人で足音を忍ばせ(このうちは下にベッドルームがあって足音が響く)、ガレージの屋根裏に隠しておいたプレゼントを、正に唄のようにクリスマス・ツリーの下に並べる。まだあるのかといくつもいくつも出てくる。私も二人にピアスをプレゼントした。30年も前に小学生がピアスをして学校に行くのである。なんちゅうことかと思った。
 朝早くに娘達が起きだしてわぁわぁおおさわぎをするのである。隣のうちの小さい子どもがサンタクロースから電動の車を貰ったんだといって見せびらかしにやってくる。私もその夫婦からなにかを貰ったのだけれど、もう覚えていない。
 この夫婦はあんまり宗教心がなくて礼拝にいったのは一回くらいだったけれど、彼等がしみじみといったことがあるのは、この街にやってきて初めてマイノリティーという立場がわかったというのだ。つまり、彼等はこの街ではマイナーなんである。
 SLCはユタを中心としたモルモン教徒の聖地のようなもので、南に下ったところにはBrigham Young Universityというモルモンで有名な大学がある。この大学に接してMissionary Training Centerという施設がある。モルモン教徒は(実際にはモルモン教という宗教は存在せず、彼等はThe Church of Jesus Christ of Latter-day Saints = 末日聖徒イエス・キリスト教会というけれど、モルモン教といわないと直ぐにはわからない)布教に行かなくてはならないからここに集まって言葉や文化の勉強をしてから世界各地に出掛けていく。日本に来ている若者達も3ヶ月くらいでしかないけれど、日本語の練習をしてやってきたものだ。そういえば最近この手の二人ひと組になって背広を着た「英語の勉強しませんか」という若者に殆ど遭遇しないのはなんでだろう。東京は対象地としていないのだろうか。それにしちゃ広尾に立派な教会がある。
 2年前にSLCを通りかかった時に、空港でいかにもこれからミショナリーに出掛けるのだという感じに黒いスーツに身を包んだ若者を何人も目にしたものだったから、まだ出掛けているのだろう。
 私が世話になった夫婦は多分プロテスタントの家庭に育ったのだけれど、それほど教会活動に関心がないという普通の家庭だろう。しかし、この街のモルモンの力には圧倒されていたに相違ない。
 彼等は早く東部に帰りたいと思っていたようだけれど、10年ほど経って旦那から連絡があって、出張で東京に行くから吞もうじゃないかという。来てみたらシカゴの近郊で製薬会社のSVPになっていて、日本の製薬会社との業務提携調印に来たといっていた。残念ながらその時点で彼等は既に離婚していて、5年後にアメリカにいった時に会社に電話をしたら、彼は出てこなかった。多分再婚したのかもしれない。
 クリスマス直後に私はこのうちから二軒目のうちに移った。旦那は障がい者向けの靴屋で仕事をしていたけれど、彼はモルモンでもないし、家は小さくて私を泊めるために子ども三人を一部屋に押し込んでいたものだから、随分気を遣った。彼等もこの街で暮らしているというのに、モルモンではなく、プロテスタントの教会に通っていた。ついていったらguestというリボンをつけさせられ、自己紹介をした覚えがある。New Year Holidaysにはその家の若夫婦の郷里、IdahoのIdaho Fallsまで車で行った。ハイウェイが凍結していてブラック・アイスになっているのに、全然気にしないでノーマルタイヤで彼らは走るのである。乳飲み子三人を乗せて。
 この夫婦はまだ若いから、この旦那の友達と私の三人でスキーに行こうということになり、ジャクソンまでスキーに行った。大変な距離を日帰りである。
 風の噂では彼等はすでにIdaho Fallsに戻ったというが、あの三人の子供たちはどうなっただろうか。ひ弱な感じの、昼間はよく電話をしていたおかみさんはうちの息子がまだ小さいのを聴いて、クイルトの掛け物を持たせてくれた。決して裕福ではなくて、明らかに私をホームステイさせることによって得られるペイが家計の一助になるというファミリィーだった。