ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

神谷町

 午後から神谷町に出掛けた。ここに某大学が持っているセミナーハウスと称する会議室のようなものがあって、かつてここでテッサ・モリス=スズキ先生のお話をお伺いしたことがある。なんでここなのかと思ったら今日のイベントの主催者の代表がこの大学の客員教授だからの様である。
 あの戦争の時に日本軍の捕虜となって強制労働に従事させられていた豪州の人たちが日本国政府の招きでかつて彼等が生活した地域を訪ねて、京都、そして今日は東京で体験談を話してくれた。かなり高齢の人たちなので、それぞれ家族や介護者がついてこられている。最年長者は軍医だったと仰る94歳の方で、89歳、89歳、88歳で最年少でも85歳である。
 殆どの方はシンガポールで日本軍に降伏してから、あの泰緬鉄道建設に強制され、ほとほとその重労働と食糧不足と、病と日本兵の暴力に悩まされ続けたという。川の水を飲むと直ぐにコレラにかかり、朝元気だった捕虜仲間が夜には死んでいたりする。熱帯潰瘍によって足がグズグズになる。するともう切断するしかない。しかし、そんな外科医療器具がないからのこぎりで足を切断する。ビルマにいた豪州軍医43名の中には120例の切断を実施したものもいる。シンガポールでは飛行場建設の他に長いトンネルを掘らされた。なんのトンネルかと思ったら連合軍がやってきた時に捕虜を皆殺しにするための墓だったと知った。最も辛かった拷問は生米を無理矢理飲み込ませ、次に水を流し込む。すると、米が腹の中で膨らんで中から腹を拡張する。これはとても痛いというが想像がつきそうだ。泰緬鉄道は全長410kmを約1年半で完成させたというのだから、如何に過酷な工事だったか。連合軍捕虜の1.2万人が死んだといわれている。アジア人で強制労働させられた人たちの死者は窺い知ることができないという。
 軍医は毎朝頭を抱えた。それは作業に出ることができる捕虜か、とても無理か、判断しなくてはならなかったし、たまに卵が手に入ると、もう死にそうな人に与えるべきか、元気になるであろう人に与えるべきか決断しなくてはならない。どうやったら彼等をより生かすことができるかを考えていった。
 彼等は泰緬鉄道を生き残ることができたと思ったら、そこから日本へ船に乗せられて移行させられた。その頃はもう米海軍の潜水艦が跋扈していて日本の輸送船は餌食になっていた。彼等の船も沈められ、そこがひとつの運命の分かれ道で、米軍艦船に救助された人たちはその後解放されたものの、日本艦船に救われた人たちには相変わらずの捕虜生活に舞い戻る。日本では多くの民間企業の工場、鉱山等で連合軍の捕虜達が働かされていて、私が従事していた会社の工場でも複数の拠点で捕虜が働かされていたことを聴いている。今日の5人の方たちが働かされていたのは信越化学武生、新潟鐵工所日本通運酒田、東芝鶴見、日立造船大正、古河工業大峰炭鉱、日本工業佐賀関精錬所である。中には当時怪我して殺処分された馬の解体に借り出されたオージーのブッチャーに肉のかたまりを分けてくれたりしてなにかと面倒をみてくれた人の家族に会うことができた人もいるのだそうだ。
 一緒に来られた息子さんの一人が「うちには相当後まで日本製の製品は全く置かれていなかった」と明かしていた。彼等の恨みは強い。しかし、何人もが、何回も繰り返していたのは「忘れることはない、しかし、なぜあんな仕打ちをしたのかを理解はしたい」という。
 最後に時間がないが質問はあるか、とフロアーに提起されたがどなたも手を挙げられない。私は手を挙げて、いくつもしたい質問はあったのだけれど、前から考えていた質問をした。
 それは文化学院キャンプでゼロ・アワーに従事したCharles Cousensについて当時の同じ捕虜となっていた人たちはどの様に感じていたのか、ということであった。もちろん、捕虜収容所では聴くことができなかったであろうゼロ・アワーの脚本を書いていたカズンズではあるが、後に戦後豪州で国家反逆罪に問われたのであるから、彼等がカズンズのことを知らないはずはない。
 発言したのは三人。しかし、全員の顔は暗く、許してはいない、彼は彼の決断を彼自身でしたわけだ、という反応だった。カズンズはどのような気持ちで反逆罪の無罪判決後の人生を暮らしたのだろうか。
 たまたま挨拶をしたあとにビルの下まで降りてくると、一行がバスで出ていくところだった。バスの中の何人かと手を振り合った。彼等はどの様な気分で日本をあとにしたのだろうか。