ほぼ足りてまだ欲 その先

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定義をちゃんとしよう

 言葉の定義というのはあるところで誰かが立ち止まってキチンとしないといけないんだぞという意識を私は、仕事を辞めてから入った学校で、同じ歳ながら昨年急逝した尾崎新先生に教わった。彼にはある日、ある言葉の意味を徹底的に考える、納得するまで突っつくということが必要で、そうでないと、わかったような、それでいて実は表面ツラをなでているだけで通り過ぎているものが数多く存在し、それではその先も本当に理解できていないことになるんだぞと、それを極める根性を教えて貰ったような気がするのである。
 ここでちゃんとしたいのは「原発推進派」というラベルを貼られた人、あるいは自分から貼っている人たちはおしなべて同じ内容ではないだろうという疑問から始まった。
 例えば石原慎太郎は果たして真の意味での原発推進派といえるのかということを考えて見よう。彼は震災が起きてすぐにこの震災は今の日本人に与えられた天罰だと発言し、その延長線上で自らを「原発推進派だよ!」と表明した。ここが現職の福島県知事である佐藤雄平とは全く異なる部分だ。
 慎太郎の場合は、まず東京都が東京電力の大株主の一人だという事情がある。つまり株主の立場として自らを肯定するがためという意味がある。
 それともうひとつは潜在的天の邪鬼症候群にかかっている傾向が見えていて、世の中で自分が気がつかなかったところを鮮やかに突いてみせる人が現れると,本能的、且つ反射的に反対するという人物がいるものである。奴はどうもこの傾向がある。
 もうひとつは「東京」電力といいながら福島、新潟に原発を押しつけている、そんな「東京」の知事としては反対できないという「事情」である。
 ところが佐藤雄平は同じ自らの立場を肯定するに際して、県民感情を考えて今は反原発を表明しているけれど、福島第一原発の3号炉のプルトニウム運転を承認したのは自分が県知事になってからのことで、佐藤栄佐久前知事が残していったものではない。つまり、彼はその時々で彼の県知事たる立場を(彼の立場からいえば)適宜変更してきた挙げ句の反原発派であって、これは日和見派といって良いだろう。この種の人たちは数多く存在するはずだ。
 原子力発電というシステムを科学的な純粋な動機とか技術の問題ではなくて、存在としてここまで普及させることができた原発推進派というのは一体誰なんだろうか。それは経済的な効率性が高いとした電力事業者だろうか。今回の事件を見てもわかる通りに、廃炉にかかる手間の問題、廃棄物処理という点で明らかになんの解決もされていない技術的な未熟性、未完成な姿によるコストが将来にわたって確実に負担となってくるのが眼に見えていた状況で、これを呑み込んでここまで普及させてきた背景はなんだろうか。
 原子力安全委員会やら、保安院といった霞ヶ関の木っ端役人やら、東大で学生をその気にさせて業界に送り込み続けてきた教員という帽子を被ったエセ科学者達はただその周りのにぎやかしに過ぎないわけで、経済的に美味しいからそうした目くらましに迷い、期待されている役割をものの見事に演じる結果となってしまったという理性のかけらもない輩に過ぎないわけだ。
 とすると一体全体誰がこの未熟なものをここまで取り込ませたのだろうか。
 なんの根拠もなしにいってしまうけれど、やっぱり巷で語られているアメリカを代表する企業、すなわちGeneral ElectricやWestinghouse Electricが国家プロジェクトとして日本を市場として開拓するためにごり押ししてきた結果だろうということができるのだろうか。こうして見ると日本の国の中で「このシステムは危ないことなんてないのだ」と主張してきた人たちはそう主張することで何らかの経済的恩恵に浴してきたということになる。
 となるとだ、東大の先生ひとりひとりも、長崎大の福島県アドヴァイザーの先生もみんな何らかの形での収賄行為をしていることになるぞ。検察は一体何をしているんだ。中曽根康弘をなにゆえ地検特捜部はそのままにしているんだろうか。
 やれやれ、こんなことのために、日本の子どもは放射能汚染物質に晒されて将来を棒に振るのか。しかも、この事実は今初めて地球上で明らかになったのかといったら、とんでもない話で、あっちでもこっちでも地球上で問題になっている状況の繰り返しの一つに過ぎないのだ。良かった、日本の年寄り達もジョン・ウェインと同じ因果関係の中であの世に旅立つことができるなんて思っている年寄りがいるとは思えない。あ、イヤ、ほんの数人はいるかもしれないが。