ほぼ足りてまだ欲 その先

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介護民俗学

「介護民俗学」を唱える六車由実が昨日のTBSラジオの「久米宏・ラジオなんです」に出演してとても興味深いことを語っていた。
 彼女は元々民俗学を専攻していた研究者で、論文はサントリー学芸賞を与えられたというのに、大学の諸事雑務がいやで学校を辞め(この辺のところはどこまで本当なのかわからないけれど)、故郷に戻って介護職員をやってきた。すると、施設で暮らすお年寄りが語る言葉を注意深く聞いていると興味深い事象、歴史が浮かび上がってくることに気がついたというのだ。
 これを聴いていて、思わず「あっ」と声を上げそうになった。この視点、この切り口があったなぁと。
 いくら認知症になっている人でも、日がな一日そういう状況にあるとは限らないし、そうであるからこそ、出現する反応や、言葉に何らかの意味があったりするのだし、そこから見えてくるものが何かあってもおかしくない。しかしながらそれは丹念に聞いていなくては拾えない。しかし、現実としては現場にはそんなきめ細かい対応をしている暇はない。何しろ人が足りない。だから、少なくとも自分で歩くことができる人や、車いすに頼るしかないけれど、寝たきりではない人たちはテレビのある大きな部屋で放って置かれるしかない。周りは忙しく立ち働いている。
 多分介護の仕事をしている人は誰でも、利用者の人たちから昔話を聞いたことがあるはずだ。関東大震災をどうやってくぐり抜けてきたか、空襲の時にどうしたのか、戦争の時はどうやって凌いだのか。いやいや、そんな大きな出来事じゃなくても、姑に如何に苦労させられたかも、小学校の時に唄った歌がどんなに懐かしいか、原節子がどんなに楚々としていたかも。
 徘徊している認知症の人だって、理由があって徘徊しているわけで、死んだ母親に呼ばれているから急いで行かなくちゃと思って歩いている人は一心不乱で歩いているわけなんだし、落とし物を捜しに行くんだと思っている人はウロウロ歩くだろう。
 「僕はね、オートバイ屋をやっていたんだよ」と訥々と話し始めたお爺さんは、日頃から部屋が並ぶ手すりのついた施設の廊下を何かぶつぶつ言いながらのろのろと歩く人だった。時としていつまで経っても歩く。「ここらで一休みしましょうよ」といって廊下にあるベンチに隣り合って座ったら、そんなことを話し始めた。
 お調子者の私はすぐさま「じゃ、陸王とか、くろがねなんてオートバイを?」とあわせるつもりでいったら「あんたも随分昔のことを知ってんだねぇ」といわれてしまった。あれからもっともっと話を引き出させて貰っていたら、あの人の人生ノートを作ることができたかも知れないなぁ。彼女の本を一度読んでみたい。
 それにしても久米宏は面白いところを拾ってくるなぁ。

驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)

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