ほぼ足りてまだ欲 その先

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歴史

 私たちは高校生の頃近現代なんてろくすっぽやらなかった。だって、もう時間が足りないよ。「日本史」の授業がそこに到達する前にとっくに受験に突入していて、もう修羅場だった。それに、入学試験で日本史を選択していない連中なんかは全くの話、振り返りもしなかったのだ。亀岡という名前の、趣味は貯金だと言い放ったどうしようもない日本史の教師の顔と名前ははっきり覚えているけれど、彼がどんな授業をしていたのかなんて全く覚えていない。
 だから、文句をいえた義理ではないけれど、若い人、といっても40代の人たちでも、日本の近現代史をほとんどきちんと勉強していない。ましてや昭和の戦争について知っている事なんてほんの一握りであり、むしろそこを知らずに、日本が戦後裁かれた東京裁判や、国際的に非難を受けた過去にやったことの本質を掘ることなく、ただただ非難されていることの表面を触るだけで煽り立てる声に呼応してしまう。あまりにも単純な有様で、嘆くどころかみっともない。
 しかし、もっとびっくりしたのは、1960年代の学生運動に対する認識が単なる騒乱という時の権力が決めつけた形でしか理解できていないことだった。多分こんな事を書いても今では笑われるだけだろうけれど、慶応大学の授業料値上げ反対闘争に端を発して各地の学生の間に野火のように広がっていった雰囲気は、本当にこのままだったら第三次大戦に日本が突進していくだろうという危機感だった。間接民主主義のシステムの中で、選挙で体制をひっくり返すべきなんだという思想はそのまま体制に絡め取られている考えだと決めつける中で、こうなったら暴力的に対抗していくしかないし、われわれが目指すべきは革命なんだ、革命なくして本来の民主主義を手にした社会はない、という決意だったといって良いだろう。
 だから、革命を本当に起こすつもりでいた連中がいたのだ。それを踏まえて当時の議論をしないと、ただ単なるお騒がせ連中でしかないということになる。チェ・ゲバラの存在はそうした中で大きな意味を持つのであって、若い人たちがあたかもアイドルのように、ピースマークや、チェ・ゲバラの肖像のティー・シャツを着ていることを「わかっちゃいねぇなぁ」と思ってみている爺さん連中はたくさんいるだろう。
 このあたりももうすでに「歴史」の枠の中に入ってしまっていて、社会の共通認識として存在しているのかと思っていると大きく間違ってしまう。
 「日本が何時までも馬鹿にされていて良いのか!?」という若者の認識による反発はそのまま日本が抑圧し、侵略し、無神経に蹂躙したアジアの諸国家からその認識を突き返されても仕方がないだろう。
 そうした歴史を誤魔化す指導者についていくのか?