ほぼ足りてまだ欲 その先

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身内

今日お伺いしたお話。マタイの福音書12:46-50
「私の母とはだれか、私の兄弟とはだれか」そして弟子たちの方を指して言われた。「見なさい、ここに私の母、私の兄弟がいる。誰でも、私の天の父の御心を行う人がわたしの兄弟、姉妹、また母である。」
福音書に書かれたイエスの発言です。人々に話しているイエスに「お母さんと兄弟がきてますよ」と言ったんですね。でも、イエスは一生懸命みんなにお話をしているわけですよ。そこへ「特別!」という雰囲気でご注進に及んだいわゆる「気の利いた人」がいたんでしょうねぇ。だけど、「こんな時にそんなことを言ってくるな!といっているってことだそうです。
某国のいわゆる「最高権力者だ」と自らがいっている親父はそれどころか自分の友達だとか、自分に美味しいことしか言わない連中が儲かるようなことしかしていませんよ。その連中を「特別扱い」するわけ。
ところがね、全然このオヤジになんの関係ない人たちでも、多分この男が目の前に現れると、今だったら手を振ったりしちゃって、スマホで写真とろうとすることでしょうねぇ。それが特別扱いの第一歩です。
この際だからはっきりいってしまいますが、わたしは天皇制だって、単なる特別扱いごっこの典型例でしかないと思っています。昭和天皇は戦後マッカーサーと11回会談をしたと言われています。そして「退位を打診した」という話とイヤそうでないという話があります。真実はどちらかでしょうね。当たり前ですが。昭和天皇はとにかく皇位が継承されることだけに関心があったといってもいいのではないか。自分の時代で終わってしまってはかなわないと。
皇統を守るためにはやらなくてはならないことはなんだろうか。やっぱり祭祀は続けなくてはならない。神道は宗教ではないという言葉の裏にはこれがある。だから皇統はまもられなくてはならない。
特別な存在を作り出して仕舞えばそれを理由になんでもすることが肯定される、という論理はとても簡単に浸透する。だから、一度確立した特別扱いはなかなか払拭できない。自公が未だに県知事選挙で勝つのはそこにある。「身内」だという意識が払拭できていない。